福州いま昔

(6月25日の出来事です)
廈門から福州に到着。車で約4時間。
以前丸紅廈門の運転手をしていた呉君にお願いしたのだが、彼も年齢とともに慎重になった様で、以前ほどスピードを出さなくなっていた。
前の彼なら、3時間で到着していたはずだ。この程度の運転の方が安心できる。
福州に到着すると風が違う。廈門の優しい風に比べて重さを感じる風。 僕の半生記エッセイに、「福州の空気は、老酒の様に長い時間ここに沈殿している重さが有る」という様な事を書いた。今の雰囲気は随分違うが、それでも廈門の爽やかさ、優しさを感じる風とは随分違う。
ここが、僕が1989年に住んでいた温泉大飯店(旧温泉大廈)があった五四路。
高層ビルが立ち並び、すっかり都会になっている。昔の面影は全くない。
福州54路福州54路2福州54路3福州54路4
昔の五四路は、道の真ん中にトロリーバス。その横が車。三輪車。自転車。場合によっては牛。そして人という感じで、交通が何層にもなっていて、1年経過しても、怖くて道が渡れなかった。そして、昔から有ったのが、下の写真の外貿中心ビルと温泉大廈。昔は、五四路のはるか遠くから、外貿中心ビルと15階建ての温泉大廈がそびえたっている様に見えたものだ。いまは、近づかなければ分からない。

外貿集団古いビル
右手の白くて古いビルが、1980年代から有った外貿中心ビル。当時はエレベーターが無かったので、階段で上まで登った記憶が。

昔の温泉大飯店
遠くにあるいくつかのビルの内、一番手前の白いのが、旧温泉大廈(現代の温泉大飯店)。現在改装中?

そして、今回宿泊した外貿中心ホテル。
1999年に僕が福州所長になった時、旧丸紅福州事務所はここにオフィスが有った。
外貿中心ホテル外貿中心部屋
福州に久々に到着して思うのは、「1989年の僕の生活は何だったんだろう」というものだ。あれだけ不便で、ノイローゼになりそうな生活だったのだが、今の福州しか知らない人には、どれだけ説明しても分かってもらえないだろう。なんか損をしたような気もするが、あの辛さが単なる思い出になってしまった今では、当時が懐かしい気持ちもある。
ただ、当時は、Email、インターネット、携帯電話等は望むべくもない(日本にも無かった。香港で、トランシーバーの様な大きさの携帯電話がそれなりに普及していたのが珍しかった程度)。国際電話も1時間2万円以上したのではないか。日本語恋しさのあまり、毎週数回日本に国際電話をかけていたら、最後の月の電話代は、40万円くらいだった記憶が有る。研修生なので1年間は帰国も叶わず、日本語もろくに話せない環境。日本料理屋は福建省に1軒も無く、夢にまで現れた。あの時の、福州に幽閉された様な孤独感は、もう味わいたくはないが。まあ、今の通信手段の発達は、そんな孤独を無縁にしてくれている(新しい孤独が生まれた面もあるが)。

そんな事を考えて翌日に。
朝食バイキングがまずそうなので、街中に出たが、まともなレストランが見当たらない。朝食は我慢して、昼に麺を軽く食べようとしたら、ホテルの洋食レストランはビュッフェしかないという。唯一アラカルトが有る中華に行くと、スープ麺はこんな巨大なものしかない。見ただけで食欲がなくなった。部屋に戻ると、冷房が全く効かなくなっており、生暖かい風が吹く始末。サウナの様な暑さで修理を頼んだら、30分程一生懸命やってくれたが「申し訳ない。修理には限界がある」と謝られて終わりになった。それからすぐ外出(夜まで)なので、部屋の交換をしてもらうのが面倒くさく、そのままにしてしまったが。
昼のでかい蕎麦
そんなこんなで、器は大都会になったのだが、ソフト面はまだまだ不便だ。そんな福州の不便さに、昔が少し残っている様な気がして、少しホッとしてしまった僕であった。

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