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シウマイ饅頭と日本酒

先週の講演会は、4月3日(月)・6日(木)・7日(金)の3回であった。その内、2回は関内。
関内駅に到着すると、構内に崎陽軒が有るので毎回惹かれる。今回は、講演中の腹の足しにシウマイまんじゅうを買う。
ウィチャットにアップすると、かなりの反響が有ったが、大部分は「シウマイをそのまま食べた方が良いのではないか」というものであった。それも一理あるが、見た目が可愛い。そして、腹の足しになるのでシウマイ好きのおやつとしては良い商品だ。

3日の講演が終わると新橋に移動。NNAの三井さんと久々の会食。お互い日本酒好きなので、野崎酒店という日本酒押しの店に決定。

上喜元、手取川、田酒など、好みの酒が多数あって嬉しい(残念ながら写楽は売り切れ)。

三井さんとは2001年からの付き合いなので、既に16年。
僕のコンサルティング活動が本格化したのは、2002年1月のNNA連載開始からというのは確かだと思うが、それから数年で僕は独立起業した。一方、NNAは共同通信の子会社となる(大企業グループになる)という事で、二人の立ち位置は大きく変わった。
もっと大きな視点でとらえると、2001年と言えば中国WTO加盟の年で、そこから中国の投資環境も大きく変わった。その変化は、驚嘆に値する。
16年あれば、色々なことが変わる。時の流れの速さを感じたひと時であった。

早稲田・高田馬場で

今週は講演会3回。少々忙しく、ブログを書く余裕が無かった。
先週末、早稲田の源兵衛で大学の同窓会を開いた。合気道クラブの集まりなので、参加者は9名と小規模。
源兵衛という選択が、如何にも学生時代を思い出すのに良い。


卒業30周年を記念して、と言われ、改めて時の経過を思う。
この30年間、色々あった。辛い事も嬉しい事もパンパンに詰まっているが、過ぎてみれば、全て良い思い出だ。
意味のない昔話をして笑うというのが、同窓会の良いところ。何も考えずによく笑った。

そして高田馬場駅まで歩いている時に、麻辣烫の店を発見。中国は至る所にあるが、日本にもできたんだと、これまた時代の流れを感じる。

オフィスから外を眺めながら

毎月1週間~10日は日本出張が入るが、東京都内で仕事をする日もあり、更には、国内出張にも行くので、横浜のオフィスで自分のデスクに座って仕事をするのは月に2回くらいか。
そんなレアな日の一コマ。

デスクの前で、「人生辛いよなあ」とつぶやいていたら、部下の横幕さんが、「水野さんの人生に、どんな辛い事がありますか!この景色を見ながら仕事ができる事を幸せに思ってください」と言って撮ってくれたのがこの写真。

この言葉には前ふりが有って・・・
現在では、顧問企業数300社、グループ8拠点、設立9周年となる水野コンサルタンシーであるが、2008年に起業独立した時は、顧問企業0からスタート。自分の会社が1年後に存続している保証も無く、不安でいっぱいだった。
その為、丸紅の退職手続で帰国した折、横浜ランドマークタワーを見にいき、「何時かここにオフィスを持つ」とポジティブなイメージを持とうと努めたが、その時、この写真(独立起業早々の頃のブログ)を撮ってくれたのが横幕さんだったという次第。
確かに、今見ると、不安で悲しげな顔をしている。

それから3年で日本事務所を開き、更に、3年後にはランドマークにオフィスを移した。当初予想していたよりはるかに順調に推移したのだが(起業当初のブログを書いた時は、内心では、20年後くらいに入居できればいいが出来るかどうか、という気持だった)、企業経営は、ストレスと不安の連続で、一つの目標を達成しても、その嬉しさは一瞬でなくなる。
結局、いつも不安を抱えている状況だ。
まあ、経営者は明るい悲観論者が良い、という(若干矛盾した)意見を持っているので、気苦労が多いのは、組織の維持と成長のためにやむを得ない事だと納得はしている。
そんなこんなから出た一言であるが、9年弱前に、外から眺めた場所を、今は内から眺めている。組織も順調に育っている。
こんな感じで、これからも、目標を一つ一つ達成していくか、と考えたひと時であった。

中国外貨管理マニュアルQ&A

中国外貨管理マニュアルQ&Aは、第三改訂版を半年くらい前に、子会社のチェイスチャイナより出版した。
数日前に、社長の杉山君より、「最近、Amazonでよく出ているなと思ったら、海外進出部門の13位に入っていました」との連絡が有った。

出したての頃ならさておいて、半年経過して。更に、この本は第3改定版(初版は2012年出版)。「なぜ今頃!」という感じもあるが、昨今、中国の外貨管理が強化されているためであろう。幻冬舎のオンラインで紹介された事も有るかもしれないが。

中国の外貨管理は、日本の昔の外為法もそうだったが、資本項目原則制限。経常項目原則自由となっている。
よって、資本項目は、経済動向に応じて規制強化・緩和が行われ得る。経常経常項目は、過去十数年以上、確実な規制緩和が続いてきたし、原則自由の位置付けより、露骨な規制強化はやりにくい。とは言え、取引時に行われる真実性の確認のさじ加減で、実質的な強化は実施できるし、その典型例が、この1年間で、決済制限がかかるようになっているオフショア取引決済。

ここ数年で規制緩和された対外送金の典型例として、クロスボーダー人民元、オフショア取引(核銷制度の廃止により2012年より可能に)、そして非貿易項目(業務委託料等)の対外送金、etc.が挙げられる。
ここ数年以内に規制緩和が行われた項目は、運用面で若干の揺り戻しが有り得る事も意味する。
今後の外貨管理動向で注意する点は、その様な内容であろうか。

山手で飲む

横浜の山手駅で酒を飲んだ。
山手駅は高校時代に毎日通学した場所なので、当然、なじみは有るのだが、全てが昼の世界。夜の状況は全く分からず。調べてみると、焼鳥屋が多く、評価の高い店も少なからずある様だ。香港時代にお世話になった方が、店を予約してくれたので、興味津々で店に。

なかなか旨い。値段も良心的。焼鳥1本100~200円だ。家の近くに有ったら、頻繁に行くであろう。
こういう焼鳥屋が香港に欲しいものだ。何分、香港で焼き鳥を食べると、一串400~500円したりする。

2次会にバーに行こうかとも思ったが、ぶらぶら歩き、付近の台湾屋台という店にする。中国駐在経験者の会は、得てしてこういう選択になるものだ。

店も良く、たくさん笑う。良い飲みであった。

上海のティンタイフォンで

先週の事、上海のティンタイフォンで会食。
入社2年目に台北に語学研修に出た時、語学学校(TLI信義路校)の近く(歩いて数十秒)のところに本店が有った。当時は多店舗展開していなかったし、さほど綺麗な店でもなかった。
同級生にはファンが多かったが、台北到着直後に行った時の先入観も有って(その後、全く問題なくなったが、留学当初は綺麗な店が好きだった)、特に好きな店という訳ではなかった。その後、新宿高島屋に海外1号店を出店したというニュースを見て驚いたし、あれよあれよという間に店舗数が増えていった。そして、店舗も綺麗になった。
その数年後、久々に台北で食べてみると、シャオロンパオの皮が繊細で、他店とは全く違う美味しさだと感じた。そして、鶏スープが美味しい。


そんなこんなで、ティンタイフォンのファンになったものだが、この日の皮はいまいちだった。来た時間帯が悪かったか。
5月の労働節休みに、台北で社員旅行をするので、久々に本場のティンタイフォンに行ってみるか。

中国の新就業許可管理の実務運用

大騒ぎになった中国の新しい就業許可管理制度も、4月1日より正式施行となる。
関連機関に質問しても、2017年4月1日以降質問してくれ、という反応が殆どで、実務運用状況の予測がなかなかできなかったが、1ヶ月ほど前から、それなりの回答も得られる様になってきた。部下が、窓口でしつこく聞いた成果と言えるのだが。
その結果を、先日、無料メルマガで配信したので、興味のある方は、こちらをご参照下さい(水野コンサルティングタンシーホールディングス・無料メルマガバックナンバーより)。

まず、新制度に関する誤解が多い点として、就業許可取得はポイント有りきだと思われている点が挙げられる。
だが、実際は、ポイントは判定条件の一つに過ぎず、例えばA類の絶対条件の何れかに該当していれば、ポイント制の考慮は不要であり、優先的にA類に分類される。そうすれば、学歴・年齢は、原則として考慮不要となる。
確かに、A類の絶対条件は、ハードルが高いものが多いのだが、よく見ると、例えば、「賃金制年収、及び年間の個人所得税納付額が、一定の基準に達した人材」というものが有る。根拠法規(外専発[2016]151号)には、この具体的な金額は明記されていないのだが、広州市は、政府機関が想定問答を公表し、広州市の平均給与の6倍以上である事を明記している。2015年の平均給与は6,764元なので、40,584元以上の月給を設定すれば、A類の絶対条件を満たす事になる。上海市の年収60万元以上・納税額12万元以上というA類判定基準は、非公開ながらもかなり有名であるが、先日、上海市レベルの担当者からも内規として存在している事(4月1日以前の基準という断り付きだが)は確認できた。

また、注目度の高い(年齢制限が免除されるA類には該当しない)60才超の方の就業許可に付いて、深圳市は想定問答で、「企業の出資者、法定代表人、責任者、特別の必要性が有る高級管理技術人材」の場合、新規は65才、継続は70才以下であれば、条件緩和を検討し得ることを公開している。また、(B類の前提条件となっている)就業経験2年未満のトレイニーの就業許可発給に付いても、C類として審査し得ると公開している(トレイニー期間中に2年になれば、B類にランクアップ可能であろう)。

それ以外の点も、メルマガには記載しているが、確認結果を踏まえると、(従来より融通は利きにくくなる面はあろうが)従前と比較して、ドラスティックな変化はないのではないかという印象を持っている。
この様な点が、政府機関でのヒアリングや情報公開を集める事によって、徐々に分かって来る。
中国の法律解釈・実務判断の難しさは、法律をそのまま読んだだけでは分からない。法律の精読は当然ながら、それに加えて、政府機関でのヒアリングや事例分析を積み重ねて、初めて実態が把握できるし、リスク管理、今度の予測も可能になるという点だ。
因みに、これを積み重ねていくのが自分の仕事。
若い頃から、これを実施するためのの仕組み(情報収集・確認ルート)が欲しかった。時間をかけて構築したのが、今の組織であり、今のビジネスモデル。

上海・小羽にて会食

上海にて、小羽で会食し、満足する。
これも時代の流れを感じるひと時。僕が1989年に福州に駐在していた時、福州市に日本料理屋は1件もなかった。1992年に丸紅上海の現地法人化で出張した時も、日本料理は有るにはあったが、数は少なく、高く、不味かった思い出が(知らなかっただけかもしれないが)。
いまは、それなりの対価を払えば、いくらでも美味しいものは食べられる。感謝すべきであろう。

上海バンドを歩く

暫く前の事、上海の外灘(バンド)を訪問。久々に、和平飯店のオールドマンジャズバーに行きたくなったためだ。
中国初訪問の1985年、外灘を歩き回り、偶然入った和平飯店にジャズバーが有るので驚いた。年季の入ったジャズマンたちが、時折息切れしながら(?)演奏しているのだが、不思議な魅力が有り居心地が良かった。今とは違い、娯楽らしい娯楽が殆ど無かった頃なので、演奏にエキサイトした西洋人が踊り出したりしていた。その場所が、随分有名だと知ったのは、約1ヶ月の中国旅行から戻ってからだ。


その時の面影はなく、場所(フロア)も移動しているが、ジャズバーは健在。何組かのバンドが演奏しているので、以前とはちょっと趣が違う。

演奏を聞きながら、ウィスキーを数杯飲んだ後は、昔を思い出しながら外灘を散歩。
当時は、浦東の開発がまだ始まっていない頃なので、河の向こうにビルなどなかった頃だ。まさに別世界。32年でこれをど変化する事を、当時の僕は、全く予想できなかった。まあ、これほどの変化を予想できた人は、誰一人としていなかったろう。

そして、上海大廈、プージャンホテルなど、思い出の場所を見て回る。