隔離解放後の上海生活

隔離から解放されても解放されないような微妙な状況が続いている。その上で、今日から浦東地域などがロックダウン(4日間)。その地域の解除後こちら側(浦西)が4日間封鎖という事が決定。まあ、時間的に短いのが救いで、食料備蓄もしてあるし、ともあれこれを乗り切って収束となりますようにと祈りたい気分だ。

今年1月2日に上海を離れた時は、上海で感染するという懸念は全くと言ってよいほどなかった。そんな訳で、駐在員全員、中国での駐在で良かったな(日本での生活だったらこんなに自由に過ごせないな)と言っていたが、状況変化があると、中国は徹底的に対応する。まあ、徹底的にやるから早期収束の希望も出てくる訳だが、感染してはいけないというプレッシャーは、日本とは比較にならないほど大きい。何が正解かは分からない。
昨日の朝には、PCR無料検査キットを配られ自己チェック。その後、夕飯の食材を買い出し。
2月23日の青島隔離から続く不自由な生活は、少々メンタルに堪えるなと思い、パスタを茹でて青島ビールホワイトを飲む。

割烹Makinoの期間限定弁当で春を感じる

昨日は天候も良く、久々に平和を感じる1日であった。外で弁当を食べているグループも複数いたり。
まあ、人の出は少ないと言えば少ないのだが、レストランがやっていないし、まだマンション封鎖されている人もいるので、これは致し方ない。


今日は一転して雨と強い風。こんな状況が続いていると、天候が大きくメンタルに影響を与える。今一つ気力がわかない今日だ。そんな中、数日前に予約してあった、割烹Makinoの期間限定弁当が届いた。有難い。

寿司、天ぷら、筍ご飯など等。昼夜2食は最低この弁当で十分だ。一人で黙々と食べるのは寂しいが、ちょっと気持ちは春めいた。

封鎖解除後

マンション封鎖はあっさり解除されたが、これはかなり幸運なケースであるようで、なかなか解除されないマンションが多い。
そうなると、自分は外出できても、友人には会えないし、レストランも開いていない。必然的に一人家にこもって自炊し、食べる日々が続くので、海外の孤独を味わっている。
上海は便利なので、平常時はこんな気持ちを味わうことは無かったが、特別な状態だなと実感する。
ちなみに、近所で買った牛肉(写真)が凄まじく硬くて噛み切れない。これには参った。翌日アピタに行って買いなおし。

出かける時に、門にこんな張り紙がしてあるのが目に入った。16~18日(封鎖時)にPCR検査を受けていない人は、別の場所でやれという案内。

実際、上海では、3月16日以降のPCR検査証明(健康コードから読める)を見せないと、入れないビルが増えてきた。当社の入っているビルもそうだ。もう少ししたら、検査証明がないと、生活に支障をきたすことになりかねない。
青島から戻った直後にマンション封鎖されたのは、運が良かったのか悪かったのかと思っていたが、結果からすると大正解だった(一番良いタイミングだった)という事になりそうだ。

ほぼ平穏無事だが隔離ボケ?

3月16日の上海到着直後にマンションが封鎖された。家に着いたのは、17日の深夜2時頃だったので、4時間後の封鎖であった。
PCR実施と検査結果確認後の封鎖解除となるので、最低48時間は解けない筈だったが、昨日(18日)16時、1.5日であっさり封鎖が解除された。
付近では、PCR検査だけで封鎖が免除されるマンションも多く、穏やかな運用が取られている感じだ。やはり、市民生活に支障をきたすわけにはいかず、その点の配慮がされているのであろう。
17日にPCR検査はしたが、それ以外は、隔離疲れがどっと出て、横たわっていたら自由の身になってしまったので、何やら不思議な感じだ。
また、何分、長期不在後の帰宅で食料の備蓄が無く、5回デリバリーを頼んだが、全てオンタイム(1時間程度)に到着したので、個人的には、何も困ったことは無かった。
部下から、「隔離解除おめでとうございます。外に出てはどうですか?」というメッセージがあったが、疲れに疲れて(メンタル疲れ)、それどころではなく、家で食事をして寝てしまった。

一夜明けて、朝はそうめん。昼食はこんな感じ。当たり前の生活を楽しむ。
その後、NNAの連載原稿。いまだに隔離ダメージで頭がぼーっとしており筆が進まないが書き上げる。
まだ疲れが残っており、外に出たくはないが、封鎖解除後の状況を確認せねばなるまいと、近所のスーパーに行くが、人が少ないを除けば平常の品揃え。即席麺が少ないかなという程度。取り合えず、ネギ、シャンプー、牛乳を購入して帰宅。

イメージ的には、みんな冷静だったなあと感心。買い急ぎもなく、封鎖も平然と受け止めており、大した混乱は無かった。これも慣れかな。

マンションの中で

3月16日夜10時半に浦東空港到着。11時半にタクシーに乗る。
良く行く日本料理屋から、「長寧区の飲食店は明日(17日)から営業停止になって暫く会えない。店に来れるなら(閉店後だが)店員3名待っている」と言われたので、店に直行して約1時間ワインを飲み語らう。
そして、今日起きたらマンションが封鎖されていた。何にせよ上海の全てのマンションを封鎖し、全員PCR検査をするので(注:翌日の補足。検査は全てながら封鎖は免除されるマンション区域が出てきました)、何時やるか違いだが、帰ってくるのを狙いすました様なタイミングだ。
運が良いと思うか間が悪いと思うかは両方当てはまるが、ちょっと時間がズレていたら家に戻れなかったので、まあ、運が良かったと言っておこう。封鎖とはいっても、マンションの中は歩けるし、デリバリーも注文できるので、特別困ったことがある訳ではない。隔離の疲れがどっと出て、動くのも億劫なので、封鎖されていてもいなくても、あまり変わりない状況だ。

ただ、「隔離飯を3週間食べた後だから、美味い飯を楽しみにしていたのに」と、この点ではがっかり。
すると、これまた懇意の料理店(別の店)が、「営業停止中で店は閉まっているが、作って門のところまで持っていってあげよう」と言ってくれ、鮨にありつけることになった。これで満足。

やることが徹底しているが、これだけやるから抑え込みもできるのであろう。周りに人たちも、「仕方ないな」という感じで、特段の抵抗感はないようだ。やはり、感染状況を長引かせるのと、徹底的にやって早く治めるのと、どちらがいいかという点に付いては、以前の経験で、「一時の我慢で良いならば、早く収まって自由に生活した方がよい」と考える人が多いのであろう。
ともあれ、最低限必要な食料は確保した。のんびり過ごそう。

青島から上海へ

隔離最終日。飛行機が17:15出発から20:50に変更となった。
それも有って、ホテルからの出発が13時から14時に。それでも15時には空港到着するので、5時間以上待つことになるが、まあ、気は心という感じだろう。

みんなでバスに乗り込み、お世話になったホテルを出る。ちょっとジーンと来る。
空港到着するが、通常時とは違う。空港内店舗は全て閉鎖されているし、表示されている便は3便だけ。北京、大連、上海が各一便だ。フライトはほぼほぼキャンセルされ、上海行は20:50以外には選択肢がなかったわけである。隔離ホテルのグループチャットを見ていると、各位が手配した飛行機がどんどんキャンセルされていくので、「こんなに頻繁にフライトキャンセルされるものか?」と不思議に思っていたが、こういう事かと合点がいった。
ホテルからの人間は、この部屋でずっと待たされる。結構長い待ち時間だが、3週間の孤独の後だけに、周りに人がいるだけで嬉しく、あまりつらさを感じない。

18時くらいには、お腹がすいてきたなと思っていると、驚く事に弁当が配られる。助かった。そして、意外に美味しいので、ほぼ食べきってしまう。

そして、20時ちょっと前、係員に先導されて全員で搭乗口に。

ほぼ定刻に上海に向けて出発した。
3週間という期間は長いものの、青島のホテルは(隔離施設にすれば)快適だった。では、次回の隔離があるとして、青島か上海かというのは、少々考えどころだ。4回の隔離経験で、隔離される能力(?)レベルは上がってきて、上海のホテルでも2週間程度なら何とかなるのではないかと思えてきた。その状況で、2週間で、もう少し良いホテルに変わることが出来(隔離中の環境変化は極めて大切で、メンタル改善に役立つ)、そこで1週間滞在すれば上海の隔離は終了する。飛行機移動の手間も無い。
青島は3週間と長い(更に、青島自体の隔離期間は4週間と長い)し、飛行機手配と移動の手間がある。まあ、通常時なら飛行機の手配はもっと楽なのであろうが、最後の移動はそれなりに面倒ではある。まあ、出来ればもう隔離は容赦して欲しいところ。暫く考えるのはやめよう。

最終日前日バタバタしたのは

無事上海到着。上海への移動に付いては、その後書きますが、まずは最終日の前日にドタバタした理由です。
あと、到着後、マンションが封鎖されたので48時間外に出られません。これは上海が全居住区民のPCR検査実施を義務付けたためで、遅かれ早かれくることなのでやむを得ないかなという感じ。この状況も追ってアップします。

さて、最終日前日にドタバタした理由ですが・・・
3月16日(水)12時の隔離ホテル解放後、青島の受入れ会社の車で、青島ホリディインホテル(香港中路)に移動して2泊。同社訪問、16日・17日夜の会食も予定していた。
ついでに開発区訪問も。
3月14日(月)夜、「青島では、3週間隔離+1週間の健康観察になっているいのでは」という疑問が湧き、確認しようと思うが、その日は夜遅く、翌朝にする。
3月15日(火)朝9時に、ホリディインのある香港中路の社区(自治体規模の政府的なもの)と交信し、「隔離はされない。派手に動かなければ良い」という回答をもらい一安心。
ただ、健康観察であることは確かなので、仕事をしてよいのかという疑問が同時に湧く。
その直後(9時半)、受入れ会社から、「今日から、青島市内の飲食店は一斉閉鎖になりました!」という連絡を受け驚く。
何処で食事しようかと受入れ会社と相談するが、駐在員の住居かホテル内しかだめだろう(ただ、ホテルはルームサービスのみ)という話になる。
更に、管理が強化されている状況下、17日の仕事(開発区訪問)は断念する事に。
この状況では、1泊で十分だろう(2泊する必要は無かろう)と話し、飛行機便の手配(18日から17日)と、PCR検査(搭乗前48時間のPCRが無いと上海に入れない)のスケジュールを練り直す。
一応、隔離ホテルで15日朝に検査をしているが、これだと17日の飛行機に乗れない。
「受入れ会社より、車で隔離ホテルに迎えに行くので、そこから病院に直行しましょう」と提案を受ける。だとすると、15時くらいの検査。その日の内に検査報告書はもらえるかな?と不安に思い(便が極端に限られているので、朝8時便になる可能性あり)、病院に確認してもらう。これが、10時過ぎ。
11時に、受入れ会社から慌てた連絡。
「大変です。外国人は、入国28日経過しないとPCR検査できないと言われました。確認不足ですみません!」と謝られる。
これは大問題で、一度隔離ホテルを出たら、最低一週間はPCR検査が受けられなくなる。結果、上海に戻ることができなくなるが、上海・青島の感染状況が悪くなっており、ロックダウンも噂されている。一週間経過すると、帰れる(便があるという)保証がない。
「まずい!」と焦り、隔離ホテルの担当者に、16日に他の人間と一緒に上海に行ってよいかを相談。同時に16日のフライト探し。
やいのやいのの時間が過ぎて、全て調整がついたのが13時。
隔離が12時までなので、16時以降の飛行機でないと乗れないと言われていたが、17時頃のチケット購入に成功。
ほっと一息ついて仕事をしていると、17時頃に上海の知人から連絡。
「水野の上海のマンションが封鎖された!」という。となると帰れない。
あたふたして確認するが、同じマンション群だが、封鎖されたのは違う号棟で、自分のビルはOKと分かり一件落着。これで上海に戻れる。
その直後(18時頃)、香港中路の社区から連絡あり、「今日から青島は4週間隔離になった。ホリデイインホテルは泊まれない」と連絡。幸い、スケジュール変更手配はできていたので、「直接上海戻る事にしたので大丈夫」と伝えると、彼は安心した様子であった。
そんなこんなで、3月15日はドタバタの一日。
ただ、結果オーライで、もし、元の予定を変更していなかったら、隔離ホテルを出て、ホリディインにも泊まれず、PCR検査もできずと、大変な事になっていた。
更に、16日に青島空港に着くと、機能を半分停止しているような状況で(中の店は全て閉店)、その日の国内便は、北京、大連、上海の便が一本ずつ(合計3本)という状況であった。交通を制限している状況が分かる。
更に、青島が4週間隔離になったことで、それまで緑だった健康コードが黄色になっていた。これでは行動が制限される。土壇場でピンチを切り抜けた感じだ。
ともあれ、非常時は、他人と違った行動はしない方が良いという教訓ですね。

隔離最終日

予定を変更し、3月16日(水)に隔離が終了したら、(青島での仕事は取止めて)直接上海に移動する事とした。
この変更には、経緯とドタバタがあったのだが、これは日を改めて書く事に。
これは、最終日の夜の食事。見た目で喜んだが、海鮮春雨が驚くほど冷たく全て残した。ちょっと冷たすぎ・・・

最後の晩は安眠できた。その前の晩(15日の晩)は寝られなかったが・・・
ともあれ、3週間一歩も部屋から外に出ないという特殊環境を乗り切った。良い部屋だったが、出られるのは嬉しい。そして、ちょっとしみじみした気分になる。

そして、3週間隔離中のゴムチューブトレーニングの成果。酒を飲まないので、もう少し引き締まるかと思ったが、これは期待外れ。ただ、以前の隔離の様に、解放時に足が震えるようなことはない。
あとは、早く上海に戻りたい。それだけだ。

19日目の夜(秋刀魚に喜ぶ)

今晩の隔離飯は秋刀魚の塩焼きだ。日本人が食べたかろうと、日本的な料理を用意してくれたホテルの気遣いに感謝だ。
酒が飲めないのは、不思議なほど気にならないが、日本料理が食べられないのはつらい。これほど日本料理を食べなかったのは、1989年の福建省実務研修生以来だ。
今では福州内に日本料理屋は多数あるが、当時は期待すべくもなかった。1989年7月~1990年2月(7~8か月)は全く日本料理が食べられず、やっと出張が認められた広州で、当時一軒しかなかった日本料理屋に直行し、天蕎麦、とんかつを食べて熱燗を飲んだら涙が出た。一人泣きながら日本料理を食べた26才のあの日であったが、妙に懐かしい。その時以来だろうな、日本料理に執着を覚えるようになったのは。はっきり言って、今日は完全な日本料理ではなかったが、それでも嬉しい。

日曜日で、のんびり執筆に励もうと思ったが、イマイチはかどらず。煮詰まるとkindle unlimitedで偶然発見した、「妻をめとらば」を読んでいた。柳沢きみおの漫画なので、しょうもないといえば、しょうもない。コメディだが、そこはかとない絶望感も有る。そんな難点はあるのだが、僕の新入社員時代に読んだ漫画で、当時のことを思い出しながら楽しんだ。
1987年の漫画なので、僕の入社と同時に始まったもの。そして、主人公も新入社員なので、気分をシンクロしたものだ。
読みながら思ったが、20代の頃、確かに結婚というのは人生最大の関心事だった。同期の連中も、それに必死になっていた。
20代の頃は、実力も地位もなかったけど、選択肢だけは無限にあって、目の前が輝いて見えた。それが、年齢と供にどんどん結果が出て選択肢は減っていく。勿論、20代の自分より、今の自分の方が確実に良い状態なので、決して昔に戻りたくはないが、それでも、あの時の、目の前の空気が澄み切っているような視界を懐かしく思い出す。
若干、感傷的な気分になったが、ともあれ、明々後日には解放だ。青島ビールで乾杯しよう。それが今一番の関心事だ。

メンタルを崩し、持ち直す(あと3日を切った)


隔離16日目・17日目にメンタルを崩した。特に17日目がつらくて、夜は眠れず。結局、3時間睡眠で起きて、翌日は朝から執筆を続けたが、焦りと不安が身体から去っていかない。
社会とのつながりを絶たれることに対する禁断症状というやつだと思うが、結構大変。オンライン面談とかチャットでは、あまり役に立たないものだな(無いよりは良いのだろうけれど)。
そして、取りつかれた様に執筆しているのは、つらさから逃れるためだが、なぜ仕事(執筆)でつらさを軽減できるかと分析すると、隔離で時間を無駄にした(何の成果もない時間を過ごした)と自分で認めるのが嫌で、必死で抵抗しているのであろう。自分の心を分析できたからと言って、この状況に役立つわけではないのだが、そんな事を思いながら眠りについた。

夜が明けると、それなりにメンタルが回復していた。理由は分からない。というか、4回の隔離で実体験したことだが、感情の動きは自分でも全く読めない。この読めない心の動きをどうコントロールしていくかが、隔離生活のポイントだ。とはいえ、今日持ち直したので、残すのはあと3日間。もう大丈夫だろう。
ちなみに、週に一回食事を変えられるので、中華から洋食に変更した。これもメンタルにプラスに働いていると思う。久々のサラダが本当に美味しく感じる。そして、肉が旨い。
日本料理が食べられない生活が続いていて、そろそろ限界だ。酒が飲めないのはそれほどつらくないが、日本料理断ちはきつい(成田空港で集中隔離されていた西洋人や中国人も同じ気持ちになったのだろうか)。ともあれ、あと3日の我慢だ。16日の日本料理が楽しみだ。

中国ビジネスコンサルタント水野真澄のブログ