10数年間の顔の変化を当時の環境を踏まえて振り返る

ある人から、「ブログをざっと見てみたが、2008年くらいで急に歳を取った(老けた)気がする。何かあったのか?」と聞かれた。直接的な理由は、言うまでもなく退職・起業時のストレスで、あの時、一気に若さを失ったのが、なかなか戻らない(というか、戻らないまま今に至る)。
その後は、社長になると、経営のストレスや責任感から、知らないうちに「社長の顔」になって来る。これを貫禄といえばそうなのかもしれないが、若さは加速度的に無くなっていく。良いやら悪いやらだが、これは自分ではコントロールできない。環境が顔を変えるという事だろう。
ただ、環境やメンタルが、ここまで直接的に外見に影響を及ぼすのが、我ながら興味深かったので、初めての本を出した2002年から今までの顔の変化を、その時の状況を踏まえて比べてみた。

2002年。コンサルティング開始早々
2002年(39歳)。コンサルティング開始早々。若かった、というか若造だ。山一證券・日本長期信用銀行破綻の余韻がまだある頃、本を1冊でも出せば、万が一の事があっても何とかなるとの思いで自費出版した本が、想定外に売れて、香港旭屋書店で年間売上1位と4位にランクされ、日本の書店でも流通した。単純に得意だった頃。
2003年
2003年(40歳)。続けざまに本を出し、立ち上げたコンサルティングビジネスも上手く滑り出し、NHKにも不定期ではあるが継続出演し、という事で、トントン拍子に上手く行った後、SARSで数か月活動が止まって、焦りと不安が出てきた。ただ、会社員の有りがたさで、生活には困らなかったので、焦りはあるとはいえ、今のプレッシャーとは比較にならないほど余裕があった。
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2004年(41歳)。コンサルティング業務も軌道に乗ってきたので、それなりに自信が出てきた頃。ただ、駐在員の宿命で、もう数年したら日本に帰らなくてはいけないのではないか(コンサルティングが出来なくなるのではないか)という心配を、何時も感じていた。
2005年
2005年(42歳)。自信と不安が入り混じっていた事。それに伴い(というか反動で)、外見が随分カジュアル。今ならしない。因みに、いまはグレーのスーツに白いシャツ。タイ着用という服装なので、この当時の自分とは完全に別物。

2005年にいったん帰国の内示が出た。経理部に帰国したらコンサルティング業務ができなくなり、クライアント企業様に迷惑をかける(当時は、部下のほぼ全員は経理部等と兼務だったので、部下の雇用の面での心配はなかった)と悩んでいたら、とある営業部門が、上海、香港にコンサルティング会社を作ってくれ、そこの社長に就任した。これで、この先もずっとコンサルティングができる(自分の居場所が確保できる)と束の間ほっとした。

2006年
2006年(43歳)。丸紅出資のコンサルティング会社が香港、上海に設立され、そこの社長になった。自分の生きる場所(生きたいように生きる場所)が確保できた気がして、束の間ほっとした。

必死の頑張りで、両方の拠点とも、初年度黒字を達成したが、次の年には、出資部門の経営方針と僕の考えに齟齬が生じ、迷いと悩みが生じてきた。

2007年
2007年(44歳)。丸紅出資のコンサルティング会社の社長とはなったが、自分のやりたい事と、会社方針が折り合わず、悩みが出てきた頃。

ここまでは良かった。
そこからが大変。2008年にコンサルティング事業撤退の話が出てから、心労がぐっと増えたが、これは心労が高まる前。元気は無くなってきているが、まだ余裕の顔。

2008年前半。まだストレスが高じる前。
2008年(45歳)前半。まだストレスが高じる前。2008年2月に、出資部門からコンサルティング事業撤退を突如として言われ、迷いが顔に表れている。

次の3枚の写真がストレスピーク時。
心労が募ったのは、2008年の2月から8月。通常、レストランやバーで飲んでいると、「水野さんですか?」と声を掛けられる事が多かったのだけど、この時は(半年間)誰からも声を掛けられなかった。数年後、親しい方から、「あの頃の水野さんは、周りに闇をまとっている感じで、怖くて声が掛けられない雰囲気でした」と言われた。精神的には、極限までやられていた。

2008年。ストレスの最中。
2008年。ストレスの最中。コンサルティング事業撤退を拒否したところ、組織と僕個人との戦いになってしまい、メンタルがかなりやられてしまう。リンパがはれて、何時も喉にシップを。
2008年。目に力が無い。
2008年。目に力が無い。この時は、ストレスの極地。著者紹介用の写真を撮るために、爽やかに笑ったつもりがこの顔。結局、この写真は没になった。

これは水野上海の新沼さん一押しの弱り切り写真。21年半勤めた会社を辞めての立ち上げにて、不安で一杯。思い切り爽やかに笑ったはずが、この上ないほど弱弱しい。

21年半勤めた丸紅の最終日。上海CI5にて。これも思いっきり爽やかに笑ったはずが、これ以上ないほど弱弱しい。
21年半勤めた丸紅の最終日。上海CI5にて。これも思いっきり爽やかに笑ったはずが、これ以上ないほど弱弱しい。

これは、退職の翌月(=起業の最初の月)。不安で一杯だったが、気持ちは吹っ切れた。自分と部下を守るためには、頑張るしかないと開き直る。
先ずは、プラスのイメージを持つために、目標であるランドマークタワーを背景に写真を撮ろうと思った。目の力はまだ弱いが、ちょっとすっきりした顔になっている。
因みに、この写真を撮ってくれた、横幕さん(丸紅経理時代の部下)は、今では僕の会社の社員として、書籍出版(特に、ステップワンシリーズの制作)に辣腕をふるってくれている。

2008年。起業直後。不安はあったが、一応、吹っ切れる。
2008年。起業直後。不安はあったが、一応、吹っ切れる。

そして、2009年の写真。起業1年経過して会社も軌道に乗ったので、顔にゆとりが出てきている。
2008年に起業した時は自分自身が食べていける保証もなかった。その状況で、前の会社(丸紅時代のコンサルティング会社)の社員全員に、付いてきてくれる人間は全員引き取るし、同一待遇を保証すると約束した。そのため、起業当時のプレッシャーは半端ではなかったが、信頼できる5人が付いてきてくれ、全員一丸となって頑張ってくれた。会社が1年で軌道に乗ったのは、彼らのおかげでもある。

2009年。起業1年で会社も軌道に乗った。
2009年(46歳)。起業1年で会社も軌道に乗った。

起業3周年。
いまから思えば、この時はゆとりが有った。
拠点は5ヶ所(日本駐在員事務所を作りたて)の頃。ビジネスも安定し、拠点も今(8拠点)より少ないので、余裕が有った。仕事中に、「ちょっと1時間走って来るね」という様な事を言って、走りに出かける事もままあったが、今では考えられない。頑張れば頑張るほど、忙しさとストレスが増していくのは経営者の宿命か。

2011年(47歳)。起業三周年記念。会社もすっかり軌道に乗り、拠点数も今より少なかった(この当時で5ヶ所)ので、比較的余裕があった。
2011年(48歳)。起業三周年記念。会社もすっかり軌道に乗り、拠点数も今より少なかった(この当時で5ヶ所)ので、比較的余裕があった。因みに、これもCI5の同じ席。退職の日が、丸紅の駐在員におごってもらったブブクリコだったので、この日はドンペリロゼを飲むことに。

そして今。完全に若さは無い。まあ、51歳(来月52歳)で若さがないのは当たり前か。ただ、自分でも社長の顔になってきたと思う。10年前の顔だったら、ビジネスはこれほど上手く行っていなかったのでは。

2015年。現在。
2015年(52歳)。現在。

さて、これからどうなるか。
あと20年は現役でいるつもりなので、まだまだ走り続けなくてはならない。充実が顔に現れる様な、これからの20年間にしたいものだ。