ある人から、「ブログをざっと見てみたが、2008年くらいで急に歳を取った(老けた)気がする。何かあったのか?」と聞かれた。直接的な理由は、言うまでもなく退職・起業時のストレスで、あの時、一気に若さを失ったのが、なかなか戻らない(というか、戻らないまま今に至る)。
その後は、社長になると、経営のストレスや責任感から、知らないうちに「社長の顔」になって来る。これを貫禄といえばそうなのかもしれないが、若さは加速度的に無くなっていく。良いやら悪いやらだが、これは自分ではコントロールできない。環境が顔を変えるという事だろう。
ただ、環境やメンタルが、ここまで直接的に外見に影響を及ぼすのが、我ながら興味深かったので、初めての本を出した2002年から今までの顔の変化を、その時の状況を踏まえて比べてみた。
2005年にいったん帰国の内示が出た。経理部に帰国したらコンサルティング業務ができなくなり、クライアント企業様に迷惑をかける(当時は、部下のほぼ全員は経理部等と兼務だったので、部下の雇用の面での心配はなかった)と悩んでいたら、とある営業部門が、上海、香港にコンサルティング会社を作ってくれ、そこの社長に就任した。これで、この先もずっとコンサルティングができる(自分の居場所が確保できる)と束の間ほっとした。
必死の頑張りで、両方の拠点とも、初年度黒字を達成したが、次の年には、出資部門の経営方針と僕の考えに齟齬が生じ、迷いと悩みが生じてきた。
ここまでは良かった。
そこからが大変。2008年にコンサルティング事業撤退の話が出てから、心労がぐっと増えたが、これは心労が高まる前。元気は無くなってきているが、まだ余裕の顔。
次の3枚の写真がストレスピーク時。
心労が募ったのは、2008年の2月から8月。通常、レストランやバーで飲んでいると、「水野さんですか?」と声を掛けられる事が多かったのだけど、この時は(半年間)誰からも声を掛けられなかった。数年後、親しい方から、「あの頃の水野さんは、周りに闇をまとっている感じで、怖くて声が掛けられない雰囲気でした」と言われた。精神的には、極限までやられていた。
これは水野上海の新沼さん一押しの弱り切り写真。21年半勤めた会社を辞めての立ち上げにて、不安で一杯。思い切り爽やかに笑ったはずが、この上ないほど弱弱しい。
これは、退職の翌月(=起業の最初の月)。不安で一杯だったが、気持ちは吹っ切れた。自分と部下を守るためには、頑張るしかないと開き直る。
先ずは、プラスのイメージを持つために、目標であるランドマークタワーを背景に写真を撮ろうと思った。目の力はまだ弱いが、ちょっとすっきりした顔になっている。
因みに、この写真を撮ってくれた、横幕さん(丸紅経理時代の部下)は、今では僕の会社の社員として、書籍出版(特に、ステップワンシリーズの制作)に辣腕をふるってくれている。
そして、2009年の写真。起業1年経過して会社も軌道に乗ったので、顔にゆとりが出てきている。
2008年に起業した時は自分自身が食べていける保証もなかった。その状況で、前の会社(丸紅時代のコンサルティング会社)の社員全員に、付いてきてくれる人間は全員引き取るし、同一待遇を保証すると約束した。そのため、起業当時のプレッシャーは半端ではなかったが、信頼できる5人が付いてきてくれ、全員一丸となって頑張ってくれた。会社が1年で軌道に乗ったのは、彼らのおかげでもある。
起業3周年。
いまから思えば、この時はゆとりが有った。
拠点は5ヶ所(日本駐在員事務所を作りたて)の頃。ビジネスも安定し、拠点も今(8拠点)より少ないので、余裕が有った。仕事中に、「ちょっと1時間走って来るね」という様な事を言って、走りに出かける事もままあったが、今では考えられない。頑張れば頑張るほど、忙しさとストレスが増していくのは経営者の宿命か。
そして今。完全に若さは無い。まあ、51歳(来月52歳)で若さがないのは当たり前か。ただ、自分でも社長の顔になってきたと思う。10年前の顔だったら、ビジネスはこれほど上手く行っていなかったのでは。
さて、これからどうなるか。
あと20年は現役でいるつもりなので、まだまだ走り続けなくてはならない。充実が顔に現れる様な、これからの20年間にしたいものだ。