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経験から分かった事(メンタルは、一旦崩すとややこしい)

自分自身、(土俵際で踏ん張れたものの)メンタルを崩したことがあるし、自分の周りの人がメンタルを壊したこともあります。
それを踏まえ、書いてみたいと思う次第です。

自分は、2004年に電気を消して眠れなくなり、結果不眠に悩まされました。また、2005年にはストレスでリンパが腫れあがりました。リンパは、2008年に丸紅を退職した後、徐々に徐々に回復して、現時点では、9割がた回復したかなという状況です。また、電気を消して眠れるようになったのは2019年。不眠が解消したのは2021年で、実に17年を要したことになります。メンタルを崩したら、治るのは20年30年スパンであり、早めの対処が必要です。不眠だった頃は、翌日午前中に何らかの予定を入れると、プレッシャーで一睡もできなくなりました。6時間の講演会は、朝10時から始まるので、この講演会をするときは、ほぼ、全く睡眠をとらないで対応する事となりました。これは地獄の苦しみでした。不眠が解消されたのは、本当に有難いことです。
ただ、当時、自分が置かれた状況を考えれば、普通の人ならメンタルを完全に崩すでしょうし、最悪、命を絶つ人もいるでしょう。土俵際で踏ん張れたのは自信になったし、それができたのは、最終的に闘争モードに切り替わった(潰してやる!という闘争心が湧き出し、怒りが不安を払しょくした)からです。時には、怒りも必要なのだな(自分の身を救う事にもなるんだな)と学びました。

ちょっと話は変わりますが、20数年前、香港在住中に、家内が死の恐怖にとらわれたことが有ります。
きっかけは不思議なことに夢でした。高校時代の友達(その時、海外在住)が夢に現れ、楽しく語った後に、その友人が「私たち、もう死ぬまで会えないね」とい言った。そして、夢が醒めたようです。その時から、死の恐怖にとらえられ、何時も恐怖の中にある。どれだけ時間が経過してもその恐怖から抜けられなくなったようです。幸い良い医者に出会い、カウンセリングのみ(投薬無し)で数か月後に治癒しました。最後のカウンセリングの時、医師が、「もう大丈夫。あなたは二度と、死の恐怖を感じなくなるよ(夢も見なくなるよ)」と言い、本当にその通りになったようです。
こういったメンタル系の医師は玉石混交の様で、却って状況を悪化させる医師もいるようです(知人が何人か、そうした医師に診断されました)。家内は、良い医師に出会ったのが幸運でした。香港なので、こうした分野が発達している欧米で学んだ医師だったのでしょう。

最後ですが、1988年の台湾研修生時代の話。赴任直後に精神的にパニックを起こしました。
その後、1989年の福建省という、いまとは比べ物にならない過酷な環境でも問題なく耐えて、帰国時には「福州を離れたくない」送別会で泣いた自分。その後は、もっと過酷な環境にも耐え抜いた自分が、台湾でパニックを起こした訳です。
丸紅時代、日本人にとって一番楽な駐在地は台湾と香港。ここで耐えられない人間は、どこに送ってもダメと言われていましたし、それは真実の一面もあります。ただ、メンタルは分からない。一番楽な台湾で、自分のメンタルが崩れた。生まれて初めての海外だったこと。婚約者(後に逃げられた)がいたのに研修し、2年間会えない状況になった事。語学研修だったので、職場に行かず、1日5時間の語学学校のみが社会との接点だったこと。諸般の情況が、まとめて押し寄せ、メンタルを潰したのでしょう。

色んなことがありますが、何れにしても自分は、「メンタルは、どんな原因・どんな環境で崩れるか分からない」という事が分かりました。
なので、メンタルが苦しい人がいたら、まず、否定せずに話を聞くようにしています。それも、自分の経験からです。
ただ、自分には、こうした分野の知識も経験もないので、快方に向かわせてあげることはできません。おかしいなと思ったら、早めに然るべき人に相談するべきだと思います。

如水会館で講演会

日本香港協会主催の講演会を、如水会館で行った。日本香港協会・香港貿易発展局は、2003年からのお付き合いで、起業時にも色々助けて頂いた。その様な訳で、講演依頼を、有難くお受けさせて頂いた次第。

如水会館は丸紅の近くなので懐かしい。とはいえ、丸紅の本社ビルも建て替わっており、当然のことながら親しみが感じられない。立派なビルになったのは良いことだが、思い出が奪われたような気も有るな。これは、単なる回顧主義だが。大手町付近は、人を威圧するような、一種独特の雰囲気があると初めて思った。以前は、毎日ここで働いていたのが不思議な気分だ。

如水会館到着。

今回は、香港華南をテーマに、ベトナムも絡めて話をした。主催者からご説明頂いたところによると、聴講者は日本香港協会会員限定ながら、現場50人弱、オンライン約50人。合計100人にご聴講頂いたようだ。現地には懐かしい方々が多い。久々の再会は本当に嬉しかった。

何時もの便で日本到着

何時もの8時50分浦東空港発便で日本に移動する。朝5時起きで、6時出発(車に乗り込む)も何時も通り。毎回眠い。浦東空港は、結構人が出ている。

体重を減らさないといけないので和食を選択。ご飯はほぼ残し、デザートは食べず。2週間毎日40~70分エアロバイクを漕いだのだが、体重がほとんど減らない。困ったものだ。ただ、胃が少し縮んだようで、少量で満足できるようになってきたので、良い兆候。3か月がかりで5Kg落とそう。

羽田は雨模様。花粉が少ないだけ有難いか。今回は、講演会2回、子供の結婚式、その他もろもろ、少々忙しい。

上海での食事

一人で食事する店を5か所くらい確保していたのだが、徐々に減っている。という事で、新規開拓を兼ねてシェリー広場(日本人がオバマ広場という場所)の夜空花火に。ここは、過去に何度か行っているのだが、ひとりで行ったことはない。一人で試してみたのだが、店員さんとずいぶん話が弾んだ。過去に、雁荡路の新藤亭という店に勤めていたと聞き、そこは僕が上海で初めて借りた部屋付近であり、且つ、当時の丸紅上海社長が好きだった店なので、昔話に花が咲く。他の店員さんも、別の日本料理屋で僕と会ったという話をされたが、よく憶えてるなあ(飲食店の人の顔の認知能力はすごいなあ)と驚くことしきり。

料理は、この小肌と冷ややっこが旨かった。

これは、スピークロウ。半年?前に改装したのだが、それ以降は初めて。スピークロウカクテル(抹茶のカクテル)が、何時もながら美味かった。

ダイエットが必要だ

香港で健康診断した結果、4年間の体重の増加が血液値の悪化につながっているという指摘(上海で健康診断を受けていたので、香港では4年前)。確かに、今までどんなに体重が増えても68Kgだったのが、最悪時は70Kgまでいってしまった。オーバーウェイトだ。4年間で筋肉も増えたが脂肪も増えた。増加の最大要因は、昨年の網膜剥離などで運動ができない状況があり、これが解消したと思ったら、通っているWill‘sという大手ジムの経営が悪化して、ジム通いに支障が出たこと。どうにもタイミングが良くない。それなら、室内でトレーニングできるようにすればよいと思い、エアロバイクを購入。1日40分漕いで、食事制限をすれば、1か月で1.5Kgは減らせる計算なので、3か月かけて5Kg減らそう。あとは、半年前にプレゼントしてもらった懸垂器。

年齢が上がると、かなり努力しないと体調を維持できない。まだまだ頑張ろう。

ろくろ

母の急逝後、全く元気がなかった父も、何とか元気が出てきた。あとは、やりがいだな。という事で、そろそろ陶芸を復活させたら?と言ったのだが、ろくろが壊れたからという。では、という事で、ろくろをアマゾンで購入。台も含めて3万円で買えた。こんなことなら、もっと早く買えばよかった。

過去に父が作った作品。かなり売ってしまったので、自宅用しか残っていないが。

家での食事は、基本的には父の作った食器で食べている。手作りの食器は温かみがあってよい。また、新しい作品ができるのを心待ちにしている。



実家にいる時は、僕が昼夜を作るので、昼の蕎麦、うどん作りには慣れてくる。これは豚南蛮蕎麦と味噌煮込み。味噌煮込みは、かなり作り方が分かってきた。山本屋の味にもかなり近いぞと、手前味噌な自己評価をしている。

香港で健康診断

香港に2泊3日で健康診断だ。会社設立以来、メディポートにお世話になっている。上海でも健康診断はできるのだが、アドバイス部分が弱い。メディポートは、しっかりと良い部分悪い部分を素人に分かりやすいように話してくれるので、これが大きい。2021年に上海に居を移してから上海で健康診断をしているが、やはり香港でやろうと決めた次第。浦東空港から東方航空で移動。何時もは、キャセイのエコノミーで移動していたが、あの狭い座席が辛くなり、東方のビジネスクラスでの移動を決めたもの。


食事は全く期待していなかったが、なかなか美味しかった。

香港到着。香港永久居民なので、IDで入出境手続きができるので早い。中国本土でも、Eチャネル登録しているので同様。二地域間の移動は、スムーズだ。

タクシーで移動。ホテルまでHK$300程度。物価の高い香港だが、タクシー代は日本よりも安く有難い。

これは香港らしい景色。ビクトリア湾の景色が良くアップされるが、こうした下町・裏路地も香港の典型的な風景だ。

健康診断の前日なので酒は飲めない。急にインド風のカレーが食べたくなる。希望としては、タンドーリチキン、あとはインド米が食べたいという事で、シティスーパーに行けば好みの弁当が買えそうだと思ったが、歩くのが面倒。オフィス付近を歩いて、飛び込みで入った店がまずまずよかった。


翌日、地下鉄の駅を歩いていて目に留まった看板。怪しい人がいたら報告して賞金をもらおうという、西部劇の様な?内容(笑)

この半年で、親しい丸紅の先輩が何人か亡くなられた。入社時に、商社マンの平均寿命は60歳程度と言われたこともあり、今回の健康診断は心配したが、恐れていた結果ではなかったが、減量は指示された。取りあえず、5Kgくらいは減らさねばならんな。

2日目の夜は、社内会食。焼肉気分だったので、本陣という焼き肉屋に行く。なかなか安いし、クオリティも高い。ワインはハウスワインしかなく、HK$199という安さなので不安だったが、意外に飲めた。

そんなこんなで、慌ただしい香港滞在であった。

 

経験して分かる事(ビジネス本の出版は、全く儲けにはならない)

最近、本を出版してないねと、何人の方から言われた。過去に、改定を含めると40冊くらい本を出したかと思うのですが、書籍という意味では最後の出版は2022年9月の「中国企業所得税の制度と実務」。ただ、PDF版の改定であれば、昨年まで出しているという状況です。
最初の本を出版したのは2002年(中国ビジネス投資Q&A)。実は自費出版で、売れなくてもいいや、という記念出版だったのが、有難いことに香港・中国本土で売れてしまい、日本の図書流通に乗りました。僕の出版との付き合いは、そこから始まります。どちらかというと、苦難の歴史ですが・・・

ビジネス書は全くもうからない。5000部売れれば、「よく売れたね」といわれる世界で、5000部売れて、印税は100~150万円程度です。これは、出版社がリスクを取って、しっかり払ってくれる場合。中国書籍が売れている時は、こんな感じで、それなりの収入になりましたが、中国進出ブームが落ち着いてからは、10~20万円などという印税もざらとなり、更に出版業界自体が思わしくないので、印税の支払いが滞りがちになりました。
僕の本は、主にキョーハンブックスから出していたのですが、ここは、全く口を挟まず、図書コードだけを使わせてくれました。好きなように本を書きたい(出版社の指示で、不本意な内容を書くことはしたくない)僕には有難いことでしたが、制作費用は全てこちら持ちです。
メリットは、地図共販の子会社だったので、書店にネットワークが有り、本を平積みで手配してくれたりできたことです。その為、キョーハンブックスの経営不振で販売代金が入らなくても、宣伝費用と割り切ればいいやという意識でした。
ただ、その後キョーハンブックスが倒産し、書籍を出版する方法を模索せざるを得なくなりました。

日本の図書業界は閉鎖的で、日販、トーハンなどの寡占状態。彼らを通さないと書店には本が並びません。以前、キョーハンの社長が、「日本の出版は、表面上は外資規制はないけど、外資で出版社作っても、卸が扱わないですよ。だから書店に本は流せない。これが日本流の外資規制です」と笑っていました。そんな感じの閉鎖社会です。
キョーハンブックス倒産後は、子会社のチェイスネクストが出版コードを取って、構成・製本まで行うようになりましたが、卸売業者との付き合いがないので、書店には並べられません。
一応、過去の実績を評価されて、八重洲ブックショップ、新宿紀伊国屋など、4~5か所の書店は個別引き取りに応じてくれましたが、やはり面倒なようで、1~2年後には、対応不可になってしまいました。現在では、Amazonのみで販売しています。
Amazonは有難く、図書流通の閉鎖社会とは無縁で、チェイスの書籍も扱ってくれます。更に、卸売業者経由で流していた時は、製本費用(デザイン・印刷など100万円程度)をこちらで負担した上で、運よく入ってきても、販売代金の10%程度。一方、Amazonで売ると、売上代金の60%がすぐに支払われます。全く以て、黒船革命、規制破壊という感じ。
その結果、Amazonでは、500冊程度が採算分岐点(卸売経由であれば、3000冊が分岐点)。

ただ、見方を変えてみると、PDFであれば、制作費用は10~20万円程度。1冊1万円程度で売れるので、紙の書籍に比べれば圧倒的に利益が出ます。更に、紙の書籍を外国で流すのは困難(物理的に、本を運ばねばならん。中国だと図書公司を通さねばならんなど)ですが、PDFなら一瞬で解決します。
その為、経営者目線では、紙の本は出さずにPDFにしたいのが本音です。
ただ、紙の本は、宣伝の意味で出した方が良い。このせめぎ合いという感じです。

夢の無い話で恐縮ですが、ほんのひとつまみの流行作家を除けば、本の執筆・作成は苦行でしかありません。ただ、書き終わった時の一瞬の快感は、マラソンを走り切った感覚に似ているのではないでしょうか。その一瞬を支えに書いています。

経験から分かる事(記憶は意外に上書きされる)

記憶力には自信がある方でしたが、その実、「意外と当てにならない」と思い知らされることが数年前に有りました。
それは、丸紅を退職する際の出来事。組織(会社という意味ではなく、所属していた部門)と対立した関係で、そこのトップの人間(当時は部門長補佐だったが後に部門長)とはさんざんやり合い、憎悪に満ちていたけれど、記録を読み返してみると、元々は彼の善意から出たことだと分かり、すっと怒りがひいた事が7~8年前にありました。その時思ったのは、「怒りは記憶を塗りかえるので怖いな」ということ。相手も同じだったのではないかと。
訴訟になる事を想定して、交信記録を保存していたのですが、それが、想定外の効果を生む結果になりました。

発端は、丸紅のとある部門が、コンサルティング会社を作ってくれ、僕がその社長になったこと。ただ、2年後に、コンサルティング事業撤退の方針が出たので、自分は丸紅を退職して、部下を引き取り、クライアント様に対するサービスを継続しようとしたこと。誰が考えても、一番道理にかなった決断で、もめる要素は無さそうですが、そこに絡んでくるのが同氏です。
コンサル撤退方針が2月に出た後、4月の人事で部門に移動してきた訳ですが、元々彼は僕の経理部時代の先輩(ただ、一度も話したことはなかった)。おそらく、僕を守ろうとして、香港・上海まで来てくれ、付き添いの部長には、「水野君がやっているのは、誰にでもできることじゃないから」と話したり、別れ際に、「水野君も大変だねえ」という一言を残して去っていったりしたわけですが、これを完全に忘れていた(記録を読み返して、やっと思い出した)。
とは言え、同氏が来る前に、組織として事業撤退方針が出ているので、彼としても、それを撤回する訳にはいかない。できることは、本社に戻して僕を引き取る事だけ。
一方、僕としては、自分が既に巻き込んだクライアント様や部下がいる以上、中途半端にやめるわけにはいかない。そんな齟齬の存在で、折り合いをつける術がなかったのが不幸であり、結果、同氏としては、「先輩の俺が差し伸べた手を払いやがった」という事になった。なまじ出身が同じ近親憎悪は、更に、憎しみが増すものです。
結局、悪意の業務監査を4週間入れてきたり(悪意であることは、監査に来た方直々に言われた)、僕が辞表を出してから、清算するはずだったコンサル会社を存続することを決めて、「部下やクライアントに接触したら訴訟起こすぞ」とすごまれたり、退職にあたり、退職後はコンサルティングをしないという誓約書を提出させようとしたり、まあ、散々なことをやられたわけです。とはいえ、丸紅というのは良い会社で、人事部・法務部などは、かなりの要求を突っぱねてくれたし、営業部門は、他社に先駆けて、真っ先に独立した僕の会社に契約を切り替えてくれた。そんな形で、(対立した組織以外は)みんなが守ってくれたので、いまの自分が有る訳です。

ここから分かるのは、善意が悪意に変わってしまう事がある(最初から悪意という訳でもなかったりする)。
結果として、そもそもの感情を忘れ、どんどん憎しみに染まっていくことがある。その意味では、過去の記録を残し、初心を残しておくのは悪くないのではと思う次第です。
同氏とは、特に会いたくはないですが、今では別に憎んでいない。という事は言っておいてもよいかなという心境です。彼は僕の事を憎んでいるかもしれませんが。というか、けっこう執念深い人間なので、おそらく憎んでるだろうなあ(笑)

日本から上海に移動

2月19日に羽田から上海に移動。何時もの午後5時発便。
キャセイラウンジでくつろぐ。今回の日本は2回の講演会もあり疲労困憊。1回2時間で二日連続。以前なら楽勝だったが、年齢的につらい。ぐったりしようと仕事をせずに1時間半ほど横たわる。


相変わらず、担々麺が美味しい。そして搭乗。数日前に友人に、「ビジネスは、少なくなると、どうぞどうぞと継いでくれるのに、エコノミーだと1杯飲ませるのも嫌そうなんだ」と冗談半分で話したが(大学時代、何度かワインを持っとくれと言って、嫌な顔されたのが、今では良い思い出だ)、今回は、ワイン1本と焼酎1杯。ただ、結果、両方のみ切れずに、すいませんと謝って下げてもらった。

JALの上海便は洋食が良いのは分かっているが(個人的な見解です)、ラウンジで担々麺を食べたので、カロリーセーブの目的で和食にする。すき焼きなので、嬉しいと言えば嬉しいが、やはり洋食の満足度には負ける。ただ、そんな感じで、和やかに、順調に移動したのであった。