大型台風が来る

9月15日(日)。久々の大型台風が来るというので、みんなから注意しろよというチャットが来る。とはいえ、眼の手術後で、外出がかなわないので、ただただ、普通に家にこもっているだけ。特に影響はない。台風が本格的に到来すると、デリバリーが頼めなくなるであろうから、少し多めに頼んでおくかという程度の注意。朝6時には起きて、朝食を食べることになったので、パンをデリバリーする。なかなかだ。

夜と明朝分を頼もうと、紋兵衛で鍋焼きうどんと鮭弁当を頼む。紋兵衛は蕎麦屋なので、うどんを頼むのは初めてだが、なぜか、「台風の日は鍋焼きうどんだ」というインスピレーションが沸き、(理由はない)、本能に従った。
台風前で空が赤い。みんながウィチャットモーメンツで、赤い空を挙げていた。

夕方6時に鍋焼きうどんを食べる。なかなか美味い。ただ、眼を使えないし、酒も飲まないので時間が長い。食後は、安眠サプリとYouTubeの朗読が頼りだ。

結局、15日(日)は大したことはなかった。翌16日の方が怪しげな風と雨。前日に買っておいたエビ天ぷらを使い、蕎麦つゆを作り、天ぷらそばを食べて引きこもる。

退院後の生活

9月13日の午前に退院した。朝9時に医師の診断があり、問題なしという事で、11時には帰宅した。前回の本手術は、大手術であったため、体力消耗も激しく、退院後は、ただソファに横たわり、しんどいと思う体力すらなかった。今回は、比較的体力が有るので、却って厄介だ。まず、目が痛い。網膜を固定するために、眼にガスを注入しているので、これが痛い。目を軽く押すだけで痛いし、それ以上に、上を向いても、首を振っても痛い。何か聞かれて、「いやいや」という程度の首の振り方でも耐えがたい痛みだ。寝返りも目が痛くて打てない。更に、ガスで右目がふさがれ、暫くは、右目の視界がない。医者曰く、徐々にガスが体に吸収されて、上の部分から見えてくる(だんだん見える部分が下がってくる)という事で、それを待つしかない。しかし、眼の中に水がたまったような感覚は、前回の眼帯をしているよりも不快だ(では、眼帯するかというと、それも面倒なのだが)。
寝る時の姿勢は、下向きか右下斜め向きだけ痛みがない(それ以外は、眼が痛む)ので、姿勢を固定する必要が有るが、今回、病院がくれた伏せ枕が優れもので、使いやすいし、肌触りも良い。これは良いものをもらった。痛みが無くなても使おうと思う。

酒は、10日間程度禁酒する予定。ただ、こんな状態でも食欲はあるので、食べるものは、本能の赴くままに食べようと思う。何分、食べること以外何もできない。これを制限したら、爆発する。病院の味のない食事の後は、無性にカツどんが食べたくなり、昼は、ヒレカツ丼をデリバリー。ついでに叉焼も取り寄せ、夜は、即席麺に入れて食べる。

中国のアプリは便利で、食事でも、物でも(水、薬、家庭用品、嗜好品、その他もろもろ)、注文すれば、30~60分以内に部屋のドアまで届けてくれる。この便利なインフラに感謝しつつ、唯一の喜び(食事)を満喫する。

右目の手術(シリコンオイル摘出)

4月17日に、網膜剥離手術をした折、網膜縫合と共に、網膜再生のためにシリコンオイルを注入した。3か月後に摘出するという事であったが、何分、母の逝去と、付随する処理でバタバタしていた。更に、摘出手術の折に、眼にガスを注入するため、1か月は飛行機に乗れないという。父親の世話もあるので躊躇し、2か月先延ばしにしたのだが、父の元気も出てきたので、9月12日に手術に踏み切った。前回と同じ、上海の嘉会国際医院。

前回は、4時間を超える大手術(眼科的には大手術の部類と言われた)だったが、今回は、オイル摘出・ガス注入という事で、半分以下の時間で終わる。とはいえ、手術というのはそれなりにしんどい。また、ガスを注入した関係で目が痛い。上を向くことが痛くてできないので、こんな感じで過ごす必要が。

全身麻酔なので、病院に1泊。17時に麻酔から覚めるが、点滴と血圧・心電図でベッドに固定されているので、身動きできずに、そのままベッドに横たわる。夕食は出されたが、術後で食欲がなかったのと、味が薄くてまずかったので、殆ど残した。

眠れぬ夜を過ごして、やっと朝が来る。9時に医師の診察が有るので、その前に朝食を食べる。病院食は、味が薄い。というか、殆ど味がない。悲しくなるが、最後にまともに食事をしたのが、手術前夜(9月11日)の18時なので、38時間殆ど何も食べていない。その割には食欲がわかない(笑)。

病室から診察場所への移動は、車いすに乗せてくれ、看護師が押してくれる。それほど疲弊している訳ではないので、自分で歩くこともできるのだが、有難く乗せてもらう。病院内で車いすに乗っていると、みんな場所を譲ってくれる。無敵感があるな。

上海帰任(目の手術を控えて)

9月10日に上海移動。12日に眼の手術(前回手術で目に入れたシリコンオイルの摘出)を控えての帰任。YCATから羽田までのリムジンから空を眺める。

散々な1年と言い続けてきたが、ふと気づいてみれば、昨年は数え年で61才。男は厄年であった。運勢とかを信じるのが大嫌いな性格なので(自分の努力で左右出来ないものを信じるのは負けた気がするので)、絶対信じたくはないのだが、まあ運勢というものを統計論と考えれば、これくらいの年齢で色々あるのも納得できる。大厄は42才なのだが、自分の数え42才(40~41才)は、コンサルティングが軌道に乗って、注目を浴びていた頃。悪いことが起こったのは、数えで45~46才の時。正確な年数で刻めるものではない。ただ、今回の手術が終われば、厄落とし。色々な意味で決着がつく。前回の災厄は、独立社長になるステップという事で、福につなげた。今回は、どうなるのだろう。

羽田空港のキャセイラウンジで仕事をする。明らかにJALラウンジより良い、素晴らしいラウンジだが(スタッフのサービスも、JALラウンジよりかなり良い)、ワンタン麺は、香港空港のキャセイラウンジには劣るな。やむを得ないか。

日本行きは朝便なので、少々投げやりな食事であったが、帰りはすき焼きと、なかなか本格的な料理で満足。帰任後10日間ほどは禁酒だ。肝機能を整えよう。

日本の一週間

9月3~10日が日本滞在であった。12日に眼の手術を上海でするので、その前々日に上海に戻る事を前提としたスケジュール。
運転免許の書き換え、納骨の手配、香典返しの最終手配等、やることはそれなりに有ったが、全て順調にこなした。まあ、一番大切な仕事は、父親の話し相手になる事と、父に栄養を付けさせることだが。

そんな事で、毎日二食(昼と夜)を料理。夜は、酒を飲みながら、2時間以上話し合う。今回の滞在で、父親の生きる力が戻ってきたのが最大の収穫であった。如何に母を愛していたとしても、引き込まれてはいけない。

墓地に行き、納骨の段取りを終えて空を見上げる。12日に眼の手術が終われば、散々だったこの1年(還暦の一年)にけりが着く。61才になるというのは、ちょっと年齢的に考えさせられるが、新しい一年の始まりだ!

上海から日本へ

9月3日の朝9時発便で、日本に移動。毎回ディレイしていた浦東発着便が、一時期定刻に戻っていたが、また遅れだした。前夜12時頃に2時間ディレイと出たのだが、DIDIでタクシーを予約しているので、結局そのままにしてしまう。次回から、前日予約は見送った方がよいかとも考える。
前夜、ドタバタが有って一睡もできない。眠くて仕方がない。そんな感じで困ったものだが、何とか日本に移動した。

真横になれる座席だったが、1時間程度眠れただけ。ちょっと身体がしんどい。

朝便は食事が簡素だ。でも、安いので仕方がない。。。

プロはすごい(掃除のおばさん)

引越しが終わり、楽々パックならぬ半楽パックで、部屋の中はぐちゃぐちゃだ。最低限は整理したものの、混乱を極める棚・引き出しの中を整理するには時間も根気も体力もかかりそうだ。翌々日に、日本移動であり時間なく、更には、上海に戻ったらすぐに眼の手術で暫く安静だ。この状態で暫く暮らすのは、気が重いなあと考えていた時にひらめいたのが、週に一度、掃除をしてくれているおばさん。彼女が、前に、ウィチャットンのモーメンツで、依頼者の部屋の整理をした状況をアップしていたのを思い出す。相談してみると、1時間当たり80元(1600円)で対応可能との回答だったので、即刻お願いする。取りあえず、僕が日本にいる内に綺麗にしてもらおうという寸法だ。

作業開始から終了まで5時間。報告が来たが、すっかり見違えた。これなら、帰るのが楽しみですらある。30分昼食を取ったので、4.5時間x80元=360元で良いというのを、少し色を付けて5時間x100元=500元支払わせてもらった。

何事もプロはすごいね。という事で、価値ある500元の出費であった。半楽パックを、掃除のおばさんが補っても、まだ3,000元足らず。結果、香港よりも、ずいぶん安く、引越しは完了したのであった。

引越し、そして開業16周年

9月1日は引越しだった。4年間住んだ虹橋豪苑から、黄金城道に引っ越しだ。虹橋豪苑は気に入っていたが、住んでいる部屋の内装が古く、次々に物が壊れる。一部は、内部の電線の問題だから直せないと言われており、空調もあまりよく効かない状況だ。上海の家賃相場と言ってしまえばそれまでだが、これで2.2万元(約45万円)は、価値がないな思い、引越しを決意した次第。
その日は、11時に新居に行き、鍵の引き取りと利用説明。家に戻って昼食を食べてから、13時半に引っ越し会社到着。頼んだのは楽々パックという感じ。ちなみに、昼食はそばを茹でた。引越しを意識したわけではなく、単に、余っていたから。

引越し会社は、荷物の詰込みはさすがプロと思わせるもので、着々と詰込みを済ませていった。ただ、後で判明するのだが、搬入はダメダメで、手あたり次第、見つけた棚に入れるだけ。下着も、(浴室に有った)タオルも、他のものも、全部一緒に目についた棚に詰め込む。結果、こんなに収納できませんでしたと言って帰っていったが、かなりの引き出し、棚は使用していないのが判明。自分でやったら、全部収納できてしまった。楽々ではなく、半楽パックだな。同じ会社を、香港で何度も使い、非常に技術が高いと驚いていたが、上海のレベルはまだまだだ。詰込みは相対的に楽だが、収納する技術は高度で、まだ習得できていないんだろうな。とはいえ、価格は香港の半額以下。日本円にすれば5万円程度と破格の安さ。技術不足を考慮した見積もりであろうから、値段相応と言える。文句を言うべきではないのであろう。

上は、搬出が終わった虹橋豪苑。下は新居。狭くなったが、綺麗になった。

新居がいきなり停電になる(空調の故障が引き起こしたらしい)というアクシデントが有り、物業管理とあれやこれやが有ったので、夕食にありついたのは、夜7時半。ササっと食事して、行きつけのバーに行く。お祝いの花とケーキを頂いた。これでやっと、めでたい気分になってきた。

焼き鳥(鰻静+朧月)

先週金曜日、オバマ広場(日本人呼称)の鰻静に行った。ちなみに、このオバマ広場というのは、日本人にしか通じない呼称で、10年以上前に、入り口部分にオバマ夜総会というのが有ったため、日本人が呼び始めたのがきっかけ。今は夜総会のかけらもないが、日本人は呼び続けている。ただ、中国語名称もしょっちゅう変わり、いまは、禧瑞广场、ちょっと前までは睿龙广场。オバマ広場と日本人が呼び出した時は、嘉祥广场のような名前(正確な漢字は忘れてしまった)。10年間で、名称変わりすぎだろうという感じがする。

さて、鰻静という店は、鰻店という位置づけだが、実は、鰻はさほどではなく、「美味いのは鶏肉だ!」という点を声を大にして言いたい。実は、頼まれて、僕が付けた店名だが、当時は店がまだない状況で、聞かれて、「何の店?鰻?じゃあ、君の名前が静だから、鰻静でいいんじゃない?」というのりで付けた。既に店ができていたら、鶏静にしていたであろう。ちなみに、頼まれて名前を考えてあげた店が、道楽(既に閉店)、やすらぎ、鰻静の3軒ある。1元ももらっていないし、出資している訳でもない。単なる、お願いされてアイデアを出してあげただけ。
で、鰻静でまず旨いのがねぎま。そして、鶏鍋。これを食べていれば、安くて旨い。二人だと、鶏鍋以外、何も頼まなくても満腹になる。そして、最後に、うどんかラーメンを入れるのが良い。

翌日は、朧月で焼き鳥。焼き鳥を置いてくれと言っていたが、同じ声が多かったようで、正式メニューになったので、何時でも食べられる。焼き鳥好きとしては嬉しいものだ。

そんなこんなの上海生活。

香港火鍋を食べる(楼上火鍋・南匯店)

暑さが落ち着いてきたら火鍋が食べたくなった。僕の場合、火鍋と言えば、重慶火鍋ではなく香港火鍋だ。これは、香港駐在時(というより、丸紅香港時代)に身に付いたもの。どこが良いかと大衆点評で探して、はじめて知った楼上火鍋を訪問する。

ビールグラスが面白い。同じビールでもこれで飲むと旨く感じるな。そして、鍋底(スープ)は、辛くないもの、という観点で鶏スープを選択したが、思った以上に手が込んでいる。

香菜は、なくてはならない。好みは分かれるが、自分自身は必須で、これだけでは足りないくらい。香港火鍋で一番好きなのは、炸鱼皮(魚の皮を揚げたもの)と生根(油揚げのボール)。この二つが有れば、あとは何も要らないくらいに好きだ。

さすがに、客人の手前、肉は頼んだけれど。

美味しかったのと、サービスが良い。親切なおばさん、おじさんが家庭的にサービスしてくれる感じは、本当に心地良かった。ただ、火鍋で、大して酒を飲まないのに(ビール一本と日本酒の持ち込み料)1,400元(3万円程度)というのは、少々高いなという気はする。ただ、機会が有れば、また行きたい店だ。

中国ビジネスコンサルタント水野真澄のブログ