母親がファイルしてくれていた丸紅社内報その2
2003年の時に、2ページ特集で自分を紹介してくれたもの。まだ、丸紅香港法人の経理部としてコンサルティングをやっていた時のもので、まだ苦労がなさそうな表情。
2002年は、本を出せば売れるし(香港の旭屋書店年間売上ランクで1位と4位)、NHKには連続で出るし、会員制サービスを始めればすぐに契約を取れるしで、やることなす事上手くいった年だった。それが、2003年になった途端、暗雲が垂れ込めた。それがSARS(2003年)。それが解消すれば、予算決算のプレッシャーで不眠になり(2004年)、人間関係で不眠がひどくなると共にリンパが腫れる(2005年)。そこから、起業独立(2008年)に突き進んでいく。
自分が一番苦しんだのは、42~45才なので、厄年ですねと言われるし(ある意味正しいとも言えるのだが)、今でも、厄年に差し掛かった後輩達からアドバイスを求められるのだが、自分の厄年に付いての考え方は、必ずしも年齢には厳密に連動していない。男の厄年である40代半ばは、今まで期待されていた役回りより、一段上のものを要求される年齢だ。会社の中で、担当から中間管理職になったり、社会の中での位置付けも重くなる。その軋轢でもがき苦しむのが、所謂厄年。つまり、脱皮の試練という意味。という事で、今年で厄が終わるとか、今年で後厄が終わるとか言っても意味はない。占いに頼るなら、自分で精進すべきだと思うし、それを克服したら、一回り大きな自分になっている。
厄を抜けた今は、そう思う。
過去の丸紅社内報(2006年)
母親がファイルしてくれていた切り抜きの中にあったもの。過去の丸紅社内報で、これは、もうないと思っていたので、こんな感じで発見できたのは嬉しい。
これは、2006年に、丸紅100%出資のM&Cというコンサルティング会社を作ってもらった時の、新トップ紹介。
苦手な事に、「窮屈な飲み会、愚痴を語る人との付き合い」と書いてあり(はっきり言ったものだ)、社員にひと言という部分には、「ベンチャーマインドを持って頑張ろう。」と書いてある。
やはり、社内ベンチャーとして立ち上げたという意識が強かったのが分かる。
あと、5年以内(2011年前)に日本に拠点を造り、10年以内(2016年以前)に、中国、アジアでトップレベルのコンサルティング会社になると書いてある。この会社は、2年後の2008年に閉鎖が決まってしまい、振り出しに戻って独立起業を余儀なくされたのだが、2011年に日本事務所を作り、2015年9月にベトナムに進出してASEANコンサルティングを始めた訳なので、その意味では、想定通りの動きをしているのが分かる。
当時(丸紅時代)、2007年にベトナムでのコンサルティング展開を画策したものの、そんな理由で白紙になり、8年間進出が遅れてしまった。あの時、お家騒動が無ければどうなっていただろうと、たまに思う事がある。
ちなみに、信条として、「コミットする事。コミットした事は必ず実現する事」と書いてある。その信条に基づきやってきたつもりだが、思えば、ここ数年、明確なコミットをしていないのを反省した。やはり、ベトナムを軌道に乗せるまでが苦しく(資金面での問題)、同じ思いを繰り返す事が怖くなったためだろう。
その中、昨年に、次の目標を米国と決め、米国の弁護士事務所との提携に動いていた。米中貿易摩擦は、今後も続くであろうから、双方の貿易・投資政策の提供や、コンサルティング提供が今後重要になると思ってのことだ。初期合意ができて、本格始動に入ろうか!(告知しようか)というところにこの騒ぎで、動けなくなってしまったのが残念だが、コロナ騒ぎが収束すれば、元に戻って進めていこう。
この1~2週間
長期間の日本滞在&自宅勤務となっているため、通常業務だけでなく、何か違う事をやろうと、小説を書きだした。
これは、出版を目的にするのではなく、「懸賞にでも応募するか」という軽い気持ち。2年ほど前に、何か趣味を探さねばと思い、少年時代から憧れていた小説を書こうと思い立った。ただ、その方面の才能(ストーリーの構築や感情描写)があるかどうか分からないので、飽くまでも趣味として書いて、懸賞に応募するのを目標にする(入賞ではなく、応募が目標)という事でいこうと思っていたのだが、ビジネス書の執筆を優先した結果、全く手がつかず、これを機会にやっと書き出したもの。
ただ、遅々として進まない。数週間経って、やっと2万字だ。いつ完成するのやら。本当に完成するのか、とすら思う。ビジネス書とはずいぶん勝手が違う・・・
あと、この一週間は、日本も中国も休みなので、政治、民族、宗教、地政学の本を、毎日1~2冊読んでいる。こういう機会が無かったら、これほどまとめて読む事はできなかったであろうから、これは瓢箪から駒だ。
色々気づく事がある。
納戸から出てきたもの
実家に居続けているので、ヒマつぶしのため納戸整理をしていたら、香港特別行政区政府という記念品が出てきた。何だったかな?と思い返してみると、おそらく、2002年に、帝国ホテルでの講演会(広州市政府と香港政府の共同誘致セミナー)に参加した時にもらったものだ。
結構、注目されたセミナーで、1,000人程度人が集まった記憶がある。政府主催の講演は、スピーカーが多いので、自分が話した時間は、15~20分程度ではなかったかと思うのだが。
講演が終わり、香港政府の人間と懇親の酒盛りを開いたのを思い出す。
1997年の香港返還後、徐々に香港と広東省政府の共同イベントが増えていったが、その第一弾に近いような企画であった。今から思うと、明るい時代であったものだ。
マスク輸出若干の強化
友人たちからのSNSでの連絡を見ていると、マスクが徐々に買えるようになってきたという投稿が目立つ。自分自身は、有難い事に、中国の友人達から、「中国では問題なく帰るので、プレゼントしてあげるよ」という連絡を何人からも頂き、特に不足することなく過ぎているが。ともあれ、一時は、日本では全く購入できない状況だったので、供給が追い付いてきたのは、ほっとする出来事だ。
この状況下、「防疫物資の輸出品質管理の一層の強化に関する通知(商務部・税関総署・国家市場管理監督総局公告2020年第12号)」が公布され、2020年4月26日以降、非医療用マスクの輸出に関して、以下の様な管理が実施される。若干の強化だ(医療用マスクは、既に管理が実施されているが、非医療用マスクも手続が規範化されたという事)。
国外での品質不良問題や、医療用・非医療用の誤用を回避するための措置である。内容的に、大きな影響は無い筈と思うが、取りあえず状況を見る必要は有ろう。
● 中国からの非医療用マスクの輸出は、「中国国内品質基準、若しくは、国外品質基準を満たす必要があり」、2020年4月26日以降の輸出に関しては、「輸出者(中国企業)と輸入者(国外企業)の共同声明」を、書面、若しくは、データで、税関に提示する必要がある。
共同声明(12号公告に様式が添付)」には、国外の輸入者は、輸入により購入する非医療用製品の品質に関する異議がなく、且つ、購入した物品を、医療用途に使用しないことに関する宣誓が要求されている。
● 国外品質基準を満たす非医療用マスクの輸出に際しては、当該マスクの生産者は、「国外基準認証・登録を取得した非医療用マスク生産企業リスト」に掲載され、且つ、「非医療用マスク不合格製品、及び企業リスト」に掲載されていない企業である必要がある。
当社もクライアント様に無償贈呈するためのマスクを1.5万枚輸入する事としているが、出航が5月1日予定なので、状況確認中。
香港のパラドクス
香港で、不動産関連でお世話になっている仲介会社(Frontier Real Estate Ltd)から送ってもらった月報を見て改めて感じたこと。
セントラル地区のA級オフィス物件の1squarefeet当たりの賃貸相場が、CEPA施行の2004年1月段階でHK$23程度。これが、2009年1月にはHK$105に上がり、リーマンショックの影響で一旦HK$60程度まで落ちるもすぐに戻し、2019年にはHK$140になっている。6倍の上昇だ。住居価格はそれほどではないが2倍程度となっている。
確かに、自分が2010年にホンハムで借りた住居の家賃が6年後には2倍になってしまったが、そういう動きも存在する。一方、物価指数の推移は、同一期間で1.5倍程度の変化だ。
日本で、数年間で給与が1~2割しか増えないのに、家賃が倍になったら、大変な騒ぎになるだろう。ましてや、不動産価格が高い(所得に占める家賃割合が高い)香港では、その影響は大きいし、所得が低い層ほど(中流でも)シリアスだ。
香港は、1997年のアジア通貨危機、2003年のSARS、2008年のリーマンショックによる経済危機を、中国のテコ入れで切り抜けてきた。その結果、中国マネーが流れ込み、経済は活性化された。今の香港は、中国無しでは生き残るのは困難だ。とはいえ、そのマネーが生み出した豊かさは、不動産価格の高騰と庶民の生活圧迫をも生み出すというパラドックスを生んでいる。
香港のデモは、香港の経済価値を毀損するという意味で、僕個人としては否定的ではあるが、こうした将来的な不安の発生を自分の身に置き換えてみれば、その気持ちも分かる気はする。
結局、経済の活性も停滞も中流層以下の困窮を生むという行き詰まり。広東省と一体化をすれば、不動産価格や雇用は安定するが(グレーターベイエリア構想は、この様な発想を織り込んでいる)、香港の市民感情が受け入れない。この状況で新型肺炎によるダメージが加わる。
いまの香港は、極めて厳しい状況にあるのは確かである。
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過去の新聞の切り抜き
実家籠りが続いているので、毎晩両親と酒を酌み交わしている状況。大学卒業後、丸紅独身寮に1年。その後、海外、一人暮らし、結婚、また海外(1997年~現在)となっているので、両親とこれだけ長い時間一緒にいる機会は無く、まさに瓢箪から駒だ。
そんな会話の中で、母親が、僕が載った新聞の切り抜きを見せてくれた。
思えば、雑誌、電子版、地方紙などを含めれば、数えきれないほど記事にしていただいたので、忘れていたものもあったが、一つ一つと見返して見ると、その頃の思い出がよみがえってきた。
関係した方々にも感謝の気持ちがわいてきた。
ちなみに各写真の思い出コメントはこちらまで(Facebookアカウントの写真にメモ書きしてあります)。
庭を見ながらもの思い
1ヶ月ほど横浜の実家に引きこもっている事になる。
家にこもって分かったのは、一戸建ての有難さで、スペースが広いし、庭がある分、マンションより圧迫感がない。一戸建ての有難さを感じたのは、初めてかもしれない。
その意味でのストレスが少ないのは良い事だが、Email、電話などは別にすると、1か月間はほぼ両親以外とは会話がない事になるので(オフィスに2回行ったので、軽い会話は部下とはしたが)、生活に変化が乏しいのは確か。
数週間前までは、オンライン宴会をする人間の気持ちが分からないと思っていたが、やっと分かりかけてきた気がする。
そんなことで、この日は、仕事をちょっと早く切り上げて、酒を飲みながら物思いにふける。
そういう状況にならないと、分からない事はあるものだ。
ダイエット中
1ヶ月ほど前からダイエット継続中。
鳥取・京都旅行で炭水化物を過剰摂取したというのは有るのだけれど、そもそも、昨年9月両親が上海旅行に来た時から、個人的には過食が続いており、徐々に体重が増えていた。
2016年に65Kg有った体重を、瞬間風速58.5Kgまで減らし、それを戻して60Kg丁度くらいで維持していたのが、この半年で64.5Kgまで増加。さすがに、体調もいまひとつという感がある。去年の年末から体重計に乗らなかったのも良くない。やはり、現実逃避をすると、事態は結局悪化する(現実に向き合う事がリスク回避の鉄則)というのは、ビジネスも体重も同じだ・・・
その後、64.5Kgの体重を、1ヶ月弱で62Kgまで減らした。あと2Kgだ。大学時代から、ダイエットは何度もしてきたので、要領は分かっている。過激な体重減はすぐにリバウンドするので、1ヶ月2~3Kgのペースで落とすのが一番。
今回のダイエットでお世話になっているのが、この紀文の糖質ゼロ麺。過去、何種類もダイエット麺を試してみたが、全て不味かった。だが、これは良い。臭みが無いし、それなりの歯ごたえもある。これで冷やし中華を作ると文句なしに美味しい。これは素晴らしい。
ただ、温かい麺にすると、さほど美味しくない。やはり、短時間でも茹でるのがいけないのか。ここら辺は、あと1ヶ月のダイエット期間が有るので、じっくり試してみよう。
最近の横浜ランドマークタワー
4月20日(月)の事。
サインを要する書類がいくつかあったので、オフィスのある横浜ランドマークタワーに行く。
ビル内の店舗は大部分が閉店なのでがらんとしている。これほど人のいないランドマークを見るとは思わなかった。こうなると、やはり恐怖を感じる。病気というより、経済に対する恐怖の方が大きいのであるが。
ともあれ、明るい未来を信じて、いまは耐え忍ぶのみ。
こんな状況でも、ビル内をいつも通り清掃をしてくれている方がいて、つい、御礼を言う。有難うございます。