富山ブラックラーメンおにぎり

北陸出張から東京に戻った翌日、ローソンで、「富山ブラックラーメンおにぎり」を売っていると聞いたので、早速買ってみる。ブラックラーメンは、良きに付け悪しきにつけ、印象に残る食べものだ。最初に食べたときはびっくりした。あまりの塩辛さに、食べ終わった後は、頭痛がしてきたほどだ。但し、その後、上海で食べ(これは、それほど塩辛くない)、スガキヤの即席麺を買ってしまったが(これは、なかなか美味しかった)、こんな感じで、習慣性があるのも特徴だ。

おにぎりは、本物よりは、かなり手加減してある。よって、頭が痛くなることはないが、口に含んだとたんに感じる胡椒の味と、食べ終わった後に残る喉の渇きが、本物をよく再現している。なかなかの作品だ。まあ、鮭やイクラのおにぎりの方が美味しいとは思うのだが・・・

鉄板ナポリタンは思い出の味だ

実家にて、鉄板ナポリタンを作る。

子供時代に食べたものは、ふと食べたくなることがある。1988年に台湾研修した時も、1997年に香港赴任した時も、ナポリタンを作るために鉄板を買ったものだった。この日は、フライパンを2個使って代用。素朴な味だ。

話変わるが、日本では当たり前と思っていたものが、海外では手に入らないことがある。最近では、嗜好の国際化と流通の発達で、手に入らないものは少なくなってきているが。
1988年に台湾に行ったときは、魚の焼き網が手に入らず困った。学校の先生に相談すると、「フライパンで焼けばいいだろう」という回答で、「それじゃあ、味が違うんだよなあ」と思ったものだ。幸い、滞在開始半年程度で、近所にサミットができて、焼き網が買える様になった。語学研修生たちは、先を争うように買っており、「みんな同じことを考えていたか」とおかしく思った。
あと、当時の台湾では、日本のビールは輸入規制の対象だった。致し方なく、毎日台湾ビールを飲んでいたが、当時の台湾ビールは、品質が今ほどではなく、味もいまひとつだったので、味気ない思いをしたものだ。
世の中は、絶えず変わっている。今の便利さに感謝。これは、色々な企業の努力の賜物だ。

金沢・富山・魚津(中華チャーシュー麺が思い出に残る)

今回の北陸出張は2泊3日。初日は金沢到着のみ。翌日朝8時半に集合して、金沢で3件面談。それから富山に移動して会食。その翌日も朝8時半集合した後、魚津で3件面談して東京に移動というスケジュール。移動に時間を要するので、件数はこなせない。
これは、2日目の昼休みにささっと参拝した尾山神社

翌日は魚津に。北陸銀行魚津支店付近は、風情はあるが、人の出はあまりない。


そんな中、麺が食べたいという僕の要望に応えて、北陸銀行の方が必死にインターネットで見つけてくれたのが(最初の2軒が休日閉店だったので、てこずった)、四十萬という店。

これが当たりだった。昔懐かしい店の雰囲気と味。
店の客は、全員五目そばを食べているし、インターネットの写真投稿も大部分は五目そばだが、大変優しい味がする。また食べたいが、おそらく行く機会はないだろう。地方出張は一期一会。

金沢到着・昼夜連続イタリアン

11月4日(月)の祝日に金沢到着。北陸銀行との提携の一環で、半年に一度富山・金沢に出張するので、その関係。
新幹線開通による金沢ブームも峠を越えて、ホテルに客が集まらないとインターネットに出ていたが、JR駅には「本日指定席は、終日全線満席です」との表示がでている。インターネット情報は正しいのか?まあ、3連休の最終日で、新幹線が(先日の台風の影響により)間引き運転中という特殊要因はあるのだろうが。

今回は、一時の北陸新幹線一部不通の影響を考慮して飛行機にての移動(小松空港経由)だが、便が満席で、やっと取れたのが朝9時半羽田出発の便。11時半には金沢駅に到着したが、ホテルチェックインまでには2時間半の時間が必要。やむなく、駅前でパスタをのんびり食べる。

夜は一人。
何を食べるか思い悩んだが、2食連続のイタリアンとする。糖質制限の関係で(但し、食事は普通に食べる)、大好きな日本酒を断っているが、そうすると日本料理に対する欲求が薄れてきた気がする。
インターネットで見つけたDeAUという店に入る。若者3人で回している店だが、なかなか良い。また行きたいが、次の金沢出張は何時になるのであろうか(今回は2年ぶり)。

丸紅辻名誉理事にご挨拶

上海から日本到着の翌日、丸紅の辻名誉理事(4代前の社長)にご挨拶に伺う。
定例というわけではないのだが、開業記念日が来ると、次の日本出張時にご挨拶させて頂いているため、だいたい秋口にお会い頂いている。大変お世話になり、尊敬している大先輩だけに、この様な形でお会いできるのは光栄だ。

寿司をご馳走になると、次の面談までの時間調整で、大手町を歩く。丸紅の新社屋がどの様な状況か、ちょっと興味を惹かれ、竹橋まで歩くと、ずいぶんできている。

もう、このビルで働く事はないので、関係ないと言えば関係ないのだが、それでも若干気になるのは元社員の性(さが)か。
秋晴れで気持ち良い、10月最後の日であった。

秋めく上海は心地よい

上海は秋。丁度心地よい気候だ。
自転車を漕いでいると、何とも風が気持ち良い。

ともあれ、そんな感じで過ごしやすい上海6日間の滞在を終えて日本に移動。
2週間ほどの日本は、金沢・富山の出張。面談だけでなく、元台湾語学研修生の会、大学の合気道OB会など、イベントもかなり入っている。

浦東空港のラウンジで、担々麺を食べて出発。

上海の週末

上海には6泊の滞在。滞在中に宴席が3件あった。
24日の上海到着直後、ハードな宴席を2日連続でこなした後の週末は、辛い物を食べたくなり、麻婆豆腐と辣子鸡を食べる。

二日酔いではあるが、外商投資法実施条例の意見徴収が出されているため(10月30日までの意見徴収)、これを会報にまとめなくてはならず、辛さを押して原稿を書く。
既に公布されている外商投資法が42条で、概念的な内容が多いので、実務インパクトがつかみにくい。実施条例が出たら明確になるかと期待していたが、これまた45条と短く、内容も元法とかなり重複するので、依然として影響が図りづらい。
その中で、ほぼ確実に読めるのは(勿論、まだ意見徴収段階なので確定ではないが)、「中国人個人が外資企業の出資者になれるようになる事」、「会社組織が内資企業と統合される事(外資三法が廃止され、会社法を根拠とするようになるので)」か。よって、中外合弁企業でも、出資者総会が必要となる(5年の猶予期間有り)。また、中外合作企業の様な柔軟性のある利益分配・リスク負担方式は、有限責任会社ではできなくなり、パートナーシップ形式を採用する必要がでてくる(今年までに設立された中外合作企業は、合弁期間満了まで存続可能)。

原稿を書き上げると、夕食に。
金虹橋のまいどおおきに食堂で、鶏のから揚げと肉豆腐を食べようと歩いていると、途中でプロントを発見。
鉄板スパゲティという文字を見つけ、名古屋生まれの人間としては、吸い寄せられるように中に入る。まずまずであった。

香港にて(雑感・その2)

香港・北京道1号の胡同にてビジネスランチ。
会食続きで過食になりがち。前日の昼、夜、この日の昼と宴席が続いていたので胃が重く、メインの料理を食べられず。

今回の状況が、地域統括会社の設立地としての香港のステイタスに影響を与えると書いたのだけれど、やはり、香港の政府機関、警察に対する信頼が揺らいだのが大きい。これは、少なからずショックであった。
勿論、1967年の反英暴動の時も、警察は全く同じことをしており(催涙弾を使っての制圧実績を英国に讃えられている)、組織の中に、こうすべきという思想が組み込まれているのであろう。ただ、安保闘争の時の日本警察の対応も同様で、それを考えれば、警察とはそのような組織だ。つまり、体制を維持する前提において、市民を保護する組織であり、対立すれば、市民は制圧の対象となるということを、改めて認識させられた感がある。
とはいえ、警察無しで、世の中が回っていかないのもまた事実。そうなれば、犯罪者が跋扈する場所になる。この現実に、折り合いが付けられるかどうかが、今後の香港の行く末を決めるということであろうか。

現在の香港と雑感

明日、と書いておきながら、アップに数日かかってしまいました。ちょっとバタバタしていた関係で・・・

香港の事態終息に2年はかかると思う理由は、現時点で、まず終息する強い要因がないため。また、要求も変化してきている。つまり、抗議者の主張も、そもそもの条例廃止から、徐々に、貧富差、生活不安などの要素が入ってきており、交渉に移行できる状況ではない。
では、どの様な状況で終息するかというと、現在の情勢により失業率の増加、経済のマイナス成長となり、困窮が進み、抗議派が少数派となった場合という観測で、それには2年かかるであろうという意見であった。
ただ、香港に戻ると、少々印象が変わった。
香港の情勢は、警察の実弾使用、抗議者の火炎瓶使用や破壊行為と、悪化しているのは確かだが、一方、局地以外は、1カ月前より平穏を取り戻している。市民の様子もそうだ。これは、抗議派とそれ以外が、徐々に分かれてきているようにも思えるし、実際、(まだ、街の人は以前よりも少ないが)飲食店などは、一時よりも回復がみられているとの声もある。
これは、現場にいないと分からない感触だ。

これが良い話か悪い話かというのは、難しい問題だ。
経済の悪化は軽減される期待がある一方、抗議の長期化が予想されるし、それは、何年という観測もつかなくなる。これが、5年、10年と続いた場合、実消費が、ある程度持ちこたえれば、外資サービス業は、それなりに香港に留まる、若しくは、新規進出も期待できるが、ホールディングカンパニー(地域統括拠点)は、シンガポール、その他の地域に移るであろう。地域統括会社設置に望まれる条件は、キャピタルゲイン非課税と自由な投資制度。そして、政情の安定で、それを満たす地域であれば、代替が可能である。
中国が、大湾区構想(グレーターベイエリア)構想を打ち出し、インフラ整備、通関利便化を進めると同時に、高級外国人材・香港マカオ永久居民に、15%の個人所得税率適用を認める方針を打ち出した(粤財税[2019]2号)。これは、香港と同じ税率だ。
これを考えあわせれば、広東省に、第2香港を設置するという報道も、信ぴょう性を増してくる。勿論、香港情勢が安定すれば、経済合理性から見て、ここまではしないであろうが、今後数十年後を見据えた、スペアタイヤとして準備をする可能性はあり得る。
そうなった場合の香港の衰退を考えると怖い。

イデオロギーの問題はあろうが、経済合理性から見れば、香港の中で、香港人自身が、香港の経済価値(金融、物流センターとしての機能と信用)を損ねている状況だ。
前にも書いたが、1985年に香港を初めて訪問し、香港ドリームの空気を体感し、ここで仕事がしたいと考えたから今がある。それだけに、非常につらい気持ち、というより、割り切れない気持ちがある。

3週間ぶりの香港到着

10月13日(日)に、ほぼ3週間ぶりに香港帰任した。
国慶節期間中は、何時も日本で仕事をするので、この期間に長期香港を離れるのは、毎年のことだ。


この状況で、観光客が激減しているので、空港は空いている。
ただ、2003年のSARSの頃よりは、まだましだ。
あの時は、頻繁に飛んでいる香港・台湾便も極端に便数が減らされて、時刻表がガタガタになっていた。キャセイの香港台湾便は、ともかく便数が多いので、時間も確かめずに、適当に空港に行って、一番早い便に乗せてもらう感じで行動していたので、一度、ひどい目にあった。
「これだけ便利で自由になったいまの中華圏で、こんな風に移動が阻害される事があるんだ」と驚いた記憶がある。病気、地震、洪水、戦争。いろんな事で、移動が制限されるのを、一つ一つ学んできた。

ただ、報道を読む限りでは、香港の滞在は、まさに恐怖と感じるが、実際に暮らしてみると、それほどでもない。状況が悪化しているのは確かだし、デモ発生に応じて、地下鉄・バスなどの運行が制限されるので、生活面では不便だが、局地以外は通常であるためであろう。
SARSは病原菌で、どう忍び寄ってくるか分からず、そして、死に至る可能性があるため、恐怖の度合いが違った。外出しなければリスクは減るが、それでも、通気、排水から忍び寄ってくるので、安全とは言い切れない。
今回の混乱は、僕としては、2年程度は続くと思っているし、状況の悪化を続けた上での終息だろうと推測している。ただ、ちょっと違う可能性も感じられてきたが、これは、また明日。

中国ビジネスコンサルタント水野真澄のブログ