買い出し、講演、ステップワン

一昨日の夜10時半に香港着。
昨日は、会議、9月初旬に上海で開催するジェトロ主催講演会のレジュメ作成、会食等。今日は広州出張で明日講演会。
という何時もながらの生活。
年内の講演会は、既に21回が決定している(外部主催7回、自社主催14回)。今年の本の執筆ノルマ(3冊)が終了したので、これから講演会に注力。外部より依頼される講演はまだ増えると思うので、毎月6回程度のスケジュールになるが、皆様の顔を見ながら話せる良い機会。しっかりこなそう。

話変わって、一昨日、日本から香港に移動する時、カバン一杯の食材を買い出した。結果、重量に鞄の車輪が壊れ、買い替えを余儀なくされる。まあ、5~6年使用した鞄なのでやむを得ないか。
買い出したのはこんな感じで、麻婆豆腐11パック、中華丼4パック、怪味ソース2パック、生ラーメンなど。とても、日本から中国に戻る人間の買い物とは思えないが、麻婆ラーメンをこよなく愛しているのでやむを得ない。
カバン麻婆豆腐

ちなみに、ステップワンは、Amazonの海外進出部門で12位になった模様。そして在庫が1冊。毎回、順位が上がると欠品になって、順位が下がるので、出版社の方の迅速な補充を祈るばかり。ともあれ、ご購入いただいている皆様、有り難うございます。
ステップワン

ベトナム法の読み込み中

ここ暫く、時間が有る時はベトナムの法律を読み込んでいる(企業法、投資法、税法等)。
中国関連法とは違い、殆どが初めて読むもので、且つ、英語で読まなければいけないものが多いので、内容把握に時間がかかる。25年前に、必死になって中国法を読み漁っていた頃を思い出して懐かしい。
ただ、中国の投資関連法規や税法に似通った部分がかなり多いので、その意味では助かっている。
暫くは、この生活が続くであろう。
外国語(まだベトナム語ができないので英語だが)で読むのは疲れるとはいえ、法律がこんな感じですぐに引き出せるようになったのだから、ベトナムも便利になったものだ。2007年に、ベトナム進出を前提に出張した折、ここまでの法律資料(英語、日本語資料)は揃っておらず、それが、計画延期の大きな要因となった。その意味でも機は熟した感はある。
法人税法法人税法2
9月1日から水野ベトナムも正規の活動を始める予定で、それに向けた資料作りを企画中。ちょっと面白い切り口にする予定。

東京の書店にて

一週間の日本滞在。面談、講演会とバタバタしていたため、更新が一週間止まりました。明日香港移動。今週は広州(27日)、上海(28日)で講演会(ステップワンの内容解説の2.5時間の講演)となります。
話変わって、同時期に日本出張されていた方から、東京駅の書店(八重洲ブックショップ?)で、水野さんの本を発見、というご連絡を頂いた。いろんな方が、書籍の陳列やランキングを教えてくれるのは大変うれしい。

増値税(東京駅の書店にて)
増値税(東京駅の書店にて)

ステップワン(東京駅の書店にて)
ステップワン(東京駅の書店にて)

ステップワン2(会計・税務編)は、27日に完成。日本の書店に並ぶのは、おそらく9月中旬となります。

バトラー(香港)でカクテルを数杯

先週の事。上海から香港に到着すると、無性に美味しいカクテルが飲みたくなり、バーButlerに直行する。
疲れており、早く帰宅したかったので、ほんの2~3杯。
写真は、〆に作ってもらったジャック・ローズカクテル。
バトラーカウンタージャックローズムール貝

帰宅すると寝る前に、ふと思いついて自分の写真を撮ってみる。
先日のブログで、2002年から1年ごとの顔の変化を当時の状況とともに紹介したけれど、これは一足飛び(コンサルティング開始直後と現在)。
2002年の写真今の写真
12年程度とは思えないほどの顔の変化。
歳をとったのは確かであるが、それだけではなく、積み重ねてきた経験と、踏んできた修羅場(経営のプレッシャー、判断リスク、各場所での折衝等々)で腹が据わり、それが面構えに出ている気もする。ビジネス、経営も戦いだなと。

水野ベトナム設立完了

本日付のNNAベトナム版に、水野コンサルタンシーベトナム現法設立の報道が掲載された。
(著作権の関係で、先日の日経産業新聞記事に引き続き、やはり内容にぼかしを入れており恐縮です)。
NNA_IC_150813_mchvn

Mizuno Consulting Vietnam.,Co.Ltdは、実は今年の5月23日に設立済み。
オフィス契約済、資本金払込済み、社員採用済の状況ながら、最初の報道までは一切の告知を控えるべく、会社のHP、ブログを始め一切の告知を控えていた。

先日の日経産業新聞のプロフィールに、さりげなく、ベトナムに法人設立した、と記載されてあるので、実はそれが最初の報道といえば言えるのだが、正式な開業に関する記事は、これが最初。
という事で、水野ベトナムは2015年9月1日より活動開始予定。
同日、日経新聞の衛星版(中国本土、香港、台湾、ASEAN地域)に全面広告出します。
起業7周年記念日は、ASEAN展開の広告という事で。

ベトナム⇒香港⇒上海⇒広州

先週、ホーチミンより香港に戻り、その後、上海に。
昨日、上海より香港に戻ると、ただいま広州行の電車の中。
という状況。
前回のホーチミンで食べた6食中、4食はベトナム料理(内、1食は、ベトナム料理と韓国料理の折衷の様な感じであったが)。
タイ料理、中華料理は好きだが、ベトナム料理があまり口に合わない僕にしては、かなりの高確率。
これは最終日に飛行場のバーで食べた生春巻き。
これは想定外の美味しさだった。
空港写真
日焼けで全身が痛い中、美味しい生春巻きでタイガービールが進んだ。

その後の数日間は、全身日焼けで歩くのも(というか、立っていること自体が)苦しい状況なので、外出を減らし、調べ物や講演会のレジュメ作りをしていた。
ビジネスモデルに関する講演会を数件依頼されているので(ジェトロ、商工会、中小企業機構等より)、保税展示販売や越境Eコマースの法制度と実務対応状況の確認をしていた。興味深い事が多々ある。

ホーチミンのプールにて

8月2日の事。
いつもベトナム出張の際は、レタントン通りにある4星ホテルに泊まる。ここは、窓、バスタブなしでUS$80程度するので、ファシリティを考えると、ちと高い。今回は、特別ソフィテルプラザに宿泊する。US$150程度と高いので、もう泊まらないだろうが、ホテル自体は素晴らしかった。
夜の会食まで時間が有ったので、朝10時頃からプールでくつろぐことにする。
プールプール空プールサイドビールプールコスモポリタンプールハンバーガー
まさに、リゾート気分。
こんなにのんびりしたのは久しぶりで、非常に楽しかったのだが、ベトナムの日差しをあまく見た結果黒焦げに。
ひどい日焼けで、水ぶくれまでできてしまったため、その後の一週間は辛かった。ただ、体が痛くて、外食する気力も、酒を飲む気力もなくなり、毎日夜10時過ぎにベッドに入っていたら、休養が取れ、精神的にも元気が出てしまった。
塞翁が馬とはこの事だ。

ベトナム出張初日

8月1日よりベトナム出張。
朝便で出発し、足マッサージを60分。
そして、丸紅ベトナム社長の坂上君(同期)と合流する。彼は、晴れて日本商工会の会長に昇格したとの事。
観光地には興味の無い僕は、基本的に、早く酒を飲みたかったのだが、首に縄を付けて引きずられる様に、観光地を回る。
オペラ座ベトナムの協会郵便局ベトナム郵便局中政府ビル
2時間ほど回って、やっと会食。ベトナムの海鮮料理を食べる事に。 一応、記念写真。ビールは333に、氷を入れたもの。
坂上君と
そんなこんなで、夜10時頃にホテルに戻ったが、食事が足りず、ホテルのバーでフォーを食べる。
フォー

10数年間の顔の変化を当時の環境を踏まえて振り返る

ある人から、「ブログをざっと見てみたが、2008年くらいで急に歳を取った(老けた)気がする。何かあったのか?」と聞かれた。直接的な理由は、言うまでもなく退職・起業時のストレスで、あの時、一気に若さを失ったのが、なかなか戻らない(というか、戻らないまま今に至る)。
その後は、社長になると、経営のストレスや責任感から、知らないうちに「社長の顔」になって来る。これを貫禄といえばそうなのかもしれないが、若さは加速度的に無くなっていく。良いやら悪いやらだが、これは自分ではコントロールできない。環境が顔を変えるという事だろう。
ただ、環境やメンタルが、ここまで直接的に外見に影響を及ぼすのが、我ながら興味深かったので、初めての本を出した2002年から今までの顔の変化を、その時の状況を踏まえて比べてみた。

2002年。コンサルティング開始早々
2002年(39歳)。コンサルティング開始早々。若かった、というか若造だ。山一證券・日本長期信用銀行破綻の余韻がまだある頃、本を1冊でも出せば、万が一の事があっても何とかなるとの思いで自費出版した本が、想定外に売れて、香港旭屋書店で年間売上1位と4位にランクされ、日本の書店でも流通した。単純に得意だった頃。
2003年
2003年(40歳)。続けざまに本を出し、立ち上げたコンサルティングビジネスも上手く滑り出し、NHKにも不定期ではあるが継続出演し、という事で、トントン拍子に上手く行った後、SARSで数か月活動が止まって、焦りと不安が出てきた。ただ、会社員の有りがたさで、生活には困らなかったので、焦りはあるとはいえ、今のプレッシャーとは比較にならないほど余裕があった。
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2004年(41歳)。コンサルティング業務も軌道に乗ってきたので、それなりに自信が出てきた頃。ただ、駐在員の宿命で、もう数年したら日本に帰らなくてはいけないのではないか(コンサルティングが出来なくなるのではないか)という心配を、何時も感じていた。
2005年
2005年(42歳)。自信と不安が入り混じっていた事。それに伴い(というか反動で)、外見が随分カジュアル。今ならしない。因みに、いまはグレーのスーツに白いシャツ。タイ着用という服装なので、この当時の自分とは完全に別物。

2005年にいったん帰国の内示が出た。経理部に帰国したらコンサルティング業務ができなくなり、クライアント企業様に迷惑をかける(当時は、部下のほぼ全員は経理部等と兼務だったので、部下の雇用の面での心配はなかった)と悩んでいたら、とある営業部門が、上海、香港にコンサルティング会社を作ってくれ、そこの社長に就任した。これで、この先もずっとコンサルティングができる(自分の居場所が確保できる)と束の間ほっとした。

2006年
2006年(43歳)。丸紅出資のコンサルティング会社が香港、上海に設立され、そこの社長になった。自分の生きる場所(生きたいように生きる場所)が確保できた気がして、束の間ほっとした。

必死の頑張りで、両方の拠点とも、初年度黒字を達成したが、次の年には、出資部門の経営方針と僕の考えに齟齬が生じ、迷いと悩みが生じてきた。

2007年
2007年(44歳)。丸紅出資のコンサルティング会社の社長とはなったが、自分のやりたい事と、会社方針が折り合わず、悩みが出てきた頃。

ここまでは良かった。
そこからが大変。2008年にコンサルティング事業撤退の話が出てから、心労がぐっと増えたが、これは心労が高まる前。元気は無くなってきているが、まだ余裕の顔。

2008年前半。まだストレスが高じる前。
2008年(45歳)前半。まだストレスが高じる前。2008年2月に、出資部門からコンサルティング事業撤退を突如として言われ、迷いが顔に表れている。

次の3枚の写真がストレスピーク時。
心労が募ったのは、2008年の2月から8月。通常、レストランやバーで飲んでいると、「水野さんですか?」と声を掛けられる事が多かったのだけど、この時は(半年間)誰からも声を掛けられなかった。数年後、親しい方から、「あの頃の水野さんは、周りに闇をまとっている感じで、怖くて声が掛けられない雰囲気でした」と言われた。精神的には、極限までやられていた。

2008年。ストレスの最中。
2008年。ストレスの最中。コンサルティング事業撤退を拒否したところ、組織と僕個人との戦いになってしまい、メンタルがかなりやられてしまう。リンパがはれて、何時も喉にシップを。
2008年。目に力が無い。
2008年。目に力が無い。この時は、ストレスの極地。著者紹介用の写真を撮るために、爽やかに笑ったつもりがこの顔。結局、この写真は没になった。

これは水野上海の新沼さん一押しの弱り切り写真。21年半勤めた会社を辞めての立ち上げにて、不安で一杯。思い切り爽やかに笑ったはずが、この上ないほど弱弱しい。

21年半勤めた丸紅の最終日。上海CI5にて。これも思いっきり爽やかに笑ったはずが、これ以上ないほど弱弱しい。
21年半勤めた丸紅の最終日。上海CI5にて。これも思いっきり爽やかに笑ったはずが、これ以上ないほど弱弱しい。

これは、退職の翌月(=起業の最初の月)。不安で一杯だったが、気持ちは吹っ切れた。自分と部下を守るためには、頑張るしかないと開き直る。
先ずは、プラスのイメージを持つために、目標であるランドマークタワーを背景に写真を撮ろうと思った。目の力はまだ弱いが、ちょっとすっきりした顔になっている。
因みに、この写真を撮ってくれた、横幕さん(丸紅経理時代の部下)は、今では僕の会社の社員として、書籍出版(特に、ステップワンシリーズの制作)に辣腕をふるってくれている。

2008年。起業直後。不安はあったが、一応、吹っ切れる。
2008年。起業直後。不安はあったが、一応、吹っ切れる。

そして、2009年の写真。起業1年経過して会社も軌道に乗ったので、顔にゆとりが出てきている。
2008年に起業した時は自分自身が食べていける保証もなかった。その状況で、前の会社(丸紅時代のコンサルティング会社)の社員全員に、付いてきてくれる人間は全員引き取るし、同一待遇を保証すると約束した。そのため、起業当時のプレッシャーは半端ではなかったが、信頼できる5人が付いてきてくれ、全員一丸となって頑張ってくれた。会社が1年で軌道に乗ったのは、彼らのおかげでもある。

2009年。起業1年で会社も軌道に乗った。
2009年(46歳)。起業1年で会社も軌道に乗った。

起業3周年。
いまから思えば、この時はゆとりが有った。
拠点は5ヶ所(日本駐在員事務所を作りたて)の頃。ビジネスも安定し、拠点も今(8拠点)より少ないので、余裕が有った。仕事中に、「ちょっと1時間走って来るね」という様な事を言って、走りに出かける事もままあったが、今では考えられない。頑張れば頑張るほど、忙しさとストレスが増していくのは経営者の宿命か。

2011年(47歳)。起業三周年記念。会社もすっかり軌道に乗り、拠点数も今より少なかった(この当時で5ヶ所)ので、比較的余裕があった。
2011年(48歳)。起業三周年記念。会社もすっかり軌道に乗り、拠点数も今より少なかった(この当時で5ヶ所)ので、比較的余裕があった。因みに、これもCI5の同じ席。退職の日が、丸紅の駐在員におごってもらったブブクリコだったので、この日はドンペリロゼを飲むことに。

そして今。完全に若さは無い。まあ、51歳(来月52歳)で若さがないのは当たり前か。ただ、自分でも社長の顔になってきたと思う。10年前の顔だったら、ビジネスはこれほど上手く行っていなかったのでは。

2015年。現在。
2015年(52歳)。現在。

さて、これからどうなるか。
あと20年は現役でいるつもりなので、まだまだ走り続けなくてはならない。充実が顔に現れる様な、これからの20年間にしたいものだ。