国際社会の中の日本として

先日の日本出張の際に、また、ここしばらく、色々なメディアの方に何度も質問されたのは、「今回の政治的な問題の中で、香港や中国本土の状況はどうか」、という点と、「ポリティカルリスクを考えた場合の中国は、日本企業の進出先としてどうか」という点である。
それに対する回答は、

前者に対しては、生活実感からすれば、全く何も影響ない。
日本人であるが故に、危険な目にあうどころか、不愉快な目にあった事は一度も無い(2005年の反日デモの時の方が、ちょっと嫌だった)。

後者に対しては、中国にポリティカルリスクがあるのは、何も今始まった事ではなく、昔からずっとそうであるし、今後も変わらない。
という事だ。

海外進出を行うに際し、政治的、宗教的なリスクは避けられない。
僕自身は、1980年代後半に商社に入ったので、不毛地帯に出てくる人たちの様な危険には晒された事は無いが、それでも、6・4事件の翌月に中国に赴任したし、湾岸戦争で油田が盛大に燃えている最中の中近東、それも危険度が比較的高かったヨルダン・シリア・サウジ・カタールを回り、クウェートの空港にも降り立った。
世界でビジネスをするというのはそういう事であり、様々なリスクと向かい合いながら生きていく事である。
そして忘れてはならないのは、既に、日本は鎖国する訳にはいかないという事だ。
世界と向き合って生きていくのは好き嫌いの問題ではなく、日本が生きていくための必然だ。
海外進出を例にとれば、その中で、市場の魅力とリスクウェートを判断しながら、最適地を決めるべきである。

その目で中国を見ると、調達・販売市場の充実、インフラの充実という点では、代替する場所はなかなか考えられないであろう。
その意味で、一義的な進出地として考えざるを得ない場所だと思う。
勿論、リスク分散は必要であり、資金的・人材的な余裕がある企業は、中国一極集中を避け、リスク分散を図るべきだ。
ただ、それができない企業は、海外で行う活動、規模、販路などを研究し、中国が良いのか、その他の国が良いのかを決めるべきであろう。
条件が変われば最適地が変わる事は当然ある。


今回の様な問題が生じるのは、歴史背景や教育に根があるで、これに付いての本質的な解きほぐしは難しい。
ただ、中国でも日本でも、大部分の人は良識を持って行動している。
過激な言動を取る人間は一握りだ。
それがインターネットで増幅され、メディアがそれを報道する事で公認される。
結果として、その国での特殊事象が、相手国では全体事象であるかの様な受け止め方がされ、敵意が増幅されるのである。
過激な意見を解き放てば、悪意が善意を封じ込める。
僕自身、多分にインターネットの恩恵に与っている立場であるが、インターネットによって生じる、この種の悪意の拡散は、言論の自由とはちょっと違う次元の話であり、しっかりした対策をすべきである。
インターネット発の戦争などが起こり得る時代になっている。

今回、中国の対応に疑問を感じる日本の報道が多かった。
この背景は、大国になりつつある傲慢さであろう。
アメリカが良い例だ。
自分の価値観を世界の正義と断定して押し売りするアメリカの傲慢さと、今回の中国の対応がダブって見えるのは僕だけだろうか。
アメリカが、(僕曰く)いけすかない大国であるとするならば、近々中国もそうなる。
その時に、日本はどうすべきであろうか。

外交というのは国益の保護であり、それを踏まえた行動を、どの国も取っている。
日本も長期的な展望に基づいた戦略を立てるべきであろうが、このブログで政治的な発言は避けたい。

ただ、言える事は、日本が存在感を無くせば、世界の中で孤立する(意見が通らなくなる)のは自明の理。
そして、国際社会では、存在感は経済力に限りなく等しい。
資源の無い国として、経済力を維持・拡大していくには、現在、優位的な地位にある知識・技術の一層の向上に努めるしかない。
日本が世界の中で自分を守るのは、経済力の維持でしかない。
その為の十分な対応(経済の活性化と技術やノウハウの保護・育成)を、日本は取っているだろうか。


そして、民間レベルでは、日中の相互理解を積極的に深めるべきだ。
僕自身、何年もかけて親しくなった中国人の友人から、「実を言うと、日本人は嫌いだが、お前の事は好きだ」と言われた事が数回ある。
同じ事を言われた人間は多いのではなかろうか。
僕がそんな事を言われたのは、20代の頃だったので、中国人の深層心理の中に、この様な対日本人感があったと知って驚いたが、それが事実であるとしても、顔が見える具体的な人間関係では、その感情が変わり得るのは分かった。
時間がかかっても、それを広げていくべきだ。
結局、二国間で理解しあうには、相互に対するレスペクトと理解しかない。
歴史が変えられない以上、未来を良い方に変えなくてはいけない。

人を殴るのは簡単であるが、その人間は、殴られる事を非難できない。
そして、それは、周りを巻き込み、そこで動いた歯車は、もう誰にも止められなくなる。
今回の様な事象で、感情的な発言をする人間は、自分の発言が世の中に影響を与えない、若しくは、与えても暴発は誰かが止めてくれると思っているのであろう。
そこから生じ得る暴動、例えば、それにより人に殴られ、殺される人がいる、という可能性を真摯に受け止めている人間はいなかろう。

今回の問題の本質は、何も解決されてはいない。
そして、改善に向けていくには、長い時間と努力が必要だ。
国際社会の中で生きざるを得ない日本が、これから真剣に考えていくべき事であろう。
もう、国際社会で、イノセント(無邪気)ではいられないのである。

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