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人民元を巡る環境

2008~2009年は、ビジネス上の環境変化が激しく、ちょっと目を離すと、追い切れないほどの法規が公布されていたものだった。
それと比べると、今年は変化が少ない。
ある意味、いい事であるが、ビジネス物の連載を抱える身としては、ネタに困る状況ではある。

ただ、法律以上に実務面での変化が速いのが人民元管理だ。
対外決済試行措置が開始したのが2009年7月。
その後、1年で、対象地域・決済項目の緩和が進み、香港での人民元取り扱いも大幅に自由化された。

とは言え、中国側の対象は、人民元対外決済許可を受けた企業のみに限定されているため、中小企業にとっては、まだまだハードルが高いと考えていた。
ところが、上海・広州で確認すると、僕の会社でもOKという回答。
という事は、申請すれば、殆どの会社で人民元決済が可能になるのではないか。

そんな訳で、まずは、対外決済企業申請を提出し、配当を人民元送金してみる事とした。

本当に、時代の流れが急速だ。

配当実施は、香港・中国本土の租税協定適用申請をしているため(源泉徴収税率5%適用に関する、国税発[2009]124号の事前登記)、まだ、若干時間がかかるが、結果は、追って状況報告する事にしよう。

年齢が上がるにつれて

無事社員旅行も終了。
今までの僕は、基本的には社員旅行を避けてきたので、その意味では新鮮だった。

社員旅行を避けてきたのは、若手の頃は、「休日まで上司に気を使いたくない」という気持ちからだ。
今回は、僕が一番上なので、「さて、どう振舞うか」と考えて、皆とは、そこそこ距離を置く事にして、自由時間を多くした。
というか、公式行事は、着いた晩の宴会だけ。
あとは自由時間(廈門市内観光は希望者のみ参加)。
家族帯同OKという条件。

制限が嫌いな僕が、若手時代の気持を考えて企画したので、そんな感じの旅行になったが、まあ良かったのではないかな、と考える。
気遣いも年長者の義務だ。

若干、話は変わるが、年齢が上がると自制が求められる事も出てくる。
年長になるにつれて、発言も、それなりに影響力が出るようになってくるので、軽い気もちで文句を行ったら、思った以上の反響を呼んでしまい、反省する事もままあった。

最近、そんな事がいくつかあったので、発言を、前より考えるようになってきて、文句は一旦胸にしまう様にしている。
年齢が上がるにつれて、言いたい事が言えない場合も出てくるものだ。

金門島を臨む海岸で

一国両制の大看板と歩哨所跡

コロンス島参観の前に、小金門の対岸の海岸に行く。
ここは、中国本土側は、「一国両制統一中国」の大文字が、金門島側には、「三民主義統一中国」の文字が、相手側に向けて掲げてあるので有名。
要塞跡・歩哨所跡も残されており、かつての軍事的な緊張をしのばせる。

僕が台湾で研修生をしていた時代(1988~89年)は、台湾の戒厳令が解かれて間がない時であったし、一般人は、金門島は訪問できなかった。
それが、現在では、廈門からフェリーで金門島まで行けるようになっている。
時代は変わったものだ。

今回の廈門は、久々にのんびりできた。
週末、仕事を忘れられたのは久しぶりだ。
廈門は、気候も良く、人も穏やかで本当にいい街だ。
すぐにでもまた行きたくなる場所。

今回は、僕にとって、生まれて初めての社員旅行であったが、和気あいあいという感じで、社員同士の交流も深まったようで、いいことだ。

今年度も全拠点黒字を実現させて、来年は海南島に行きたいものだ。


コロンス島で日光岩観光

下から見た日光岩と墜落注意の看板

2日目は廈門観光をした。
これまた丸紅廈門時代の部下だった呉君が、今では車のレンタル業をしているので、2台借りて半日ガイドをお願いする事となった。

観光場所は、海辺(小金門島の対岸)を車で流し、その後コロンス島。
コロンス島には何度も行ったが、全て出張者のアテンド(スーツを着た状態)で、日光岩に登った事がない。
今回は、是非、ここに登ろうと決めていた。

日光岩を下から眺めるとこんな感じ。
登るだけで60元というのは高いが、観光地であり致し方ない。

急な階段で、至る所に墜落注意の看板が掛けてある。
そりゃあ注意するわなあ、という感じだ。

日光岩の上から

岩に登ると廈門島が良く見渡せる。

上に登ると思ったより高く、風が強くてちょっと怖かった。

岩の至る所に人がいる。
転がり落ちそうな錯覚を覚えるのでちょっと怖い。

ともあれ、初めての日光岩観光は、思ったより楽しかった。
小一時間もあれば観光できるので、一度は価値がある。

そう何度も行く場所でもないが・・・

社員旅行初日は廈門で海鮮

ホテルの部屋と窓からの夜景(コロンス島が見える)

福州から再度電車に乗って廈門到着。
廈門駅周辺はタクシーがつかまりにくい。
結構歩き回って、やっとつかまえる。

何やら真面目そうなタクシーの運転手で、黙々と運転をしていたのであるが、突然、振り返りもせず、「請問」という。
何を聞かれるのかと思うと、「上着を着ていると暑くありませんか?」という事であった。
「いやいや、携帯電話3個と名刺入れが入ってるんで、上着を着ないと不便なんですよ」と回答。

廈門のホテルはウィンダムホテル。
1年ほど前にできた5星ホテルだ。
従業員のサービスは、まだ不慣れな感があるが、設備は立派だ。

部屋はこんな感じ。

夜は海鮮。
上海からの飛行機が遅れて(香港、広州からの便は遅れず到着)、開始が8時半からになってしまったが、ともあれ、シャコ、ロブスター、ガルーパ等を堪能する。

そんな感じで集合写真。
今回は亀一をはじめ、日本勢は不参加。
代わりに(?)丸紅廈門時代の部下の陳君が駆けつけてくれた。

思い出の温泉大飯店

福州駅と温泉大飯店の部屋

香港から1時間の飛行で廈門到着。
すぐに廈門駅までタクシーで行き、電車で福州に移動。

廈門・福州間の快速は、数か月前に開通したとの事で、2時間弱で福州に到着する。
研修時代(1990年)は、車で6時間かけて移動していた訳だから、便利になったものだ。

宿泊は、研修時代住んでいた温泉大飯店。

部屋はほぼ昔通り。
僕は、昔住んでいた思い入れがあるので、喜んで泊るのであるが、普通に見れば、五星ホテルにしては、古びた感じで期待外れという事になるのだろうか。
思い出というのはすごいものだ。

これは、エレベーターの前にある服務台。
今は人がいないが、当時は、常時ここに服務員がいて、見張っていた(?)ものだ。

とは言え、皆な、同年代(20代)の女性だったので、娯楽が全くなかった当時の僕は、毎晩、ここで2~3時間、服務員と立ち話をしていた。
それが唯一の娯楽だった。
孤独は癒えるし、語学の勉強にもなるし、一石二鳥。

話は変わるが、移動中に、小学生時代の事を考えた。
小学校時代の僕は内気で、小学校に入学した時、最初、トイレの場所が分からず(人に聞けず)3日間ほどトイレに行けなかった。
入学数日後に校内を歩いていて、トイレを見つけた時は嬉しかったものだ。

こんな内気な人間だったのに、今では平気で海外に行き、交渉もすればプレゼンもする。
人間、経験で性格も変わるものだ。

今日から廈門・福州

今日から4日間の福建省。
福州1泊・廈門2泊。

廈門は初めての社員旅行だ。
社員が4か所(日本、上海、広州、香港)に散らばっていて、お互い顔を見た事がない、という部下たちがいるので企画した社員旅行。
公式行事は金曜の夕食だけで、あとは自由行動というゆるいスケジュールなので、海鮮を食べてのんびり過ごそう。

という事で、また、福建省から交信します。

コットンクラブで打合せ

日本の最終日、高田馬場で打合せがあったので、カフェコットンクラブで昼食を取りながらという事になった。

ここは、僕が大学1年の時に開店した店で、当時の早稲田には不似合いなおしゃれな店であった。
最近では、高田馬場にも洒落た店が増えてきたが。

大学時代の僕は、いつもさえない格好をしていたので(合気道に明け暮れる、男ばかりの生活だった)、1~2回しか行った事はなかった。
最初に、僕に輪をかけて服装に気を使わない合気道の先輩と、男二人で行った時は、完全に浮いていて、さすがに居心地がわるかった。

頻繁に行くようになったのは、中国研修から帰って、早稲田に住むようになってから(26~30才の頃)。
会社の後輩、近所に住んでいた大学時代の親友と、月に何度も来たものだ。

当時は地下のバーだけだったのが、1F、2Fにレストランができ規模拡大。
僕は15年ぶりくらいの訪問になる。

2Fのテラス席でパスタを食べる。
あと、当時好きだったフローズンストロベリーダイキリも頼んでみる。
当時は、花は添えられておらず、男が飲んでもそれほど恥ずかしくない外見だった気がするが・・・


最後に、昔懐かしい地下のバーを見学させてもらう。
次回はバーに来るとしよう。

五穀がゆを買い込む

今回買ったおかゆ

日本から香港へ移動するので、食材を買い込んだ。
前回までは、カップ麺(蒙古タンメン中本、一風堂など)を買い込んだが、ここ一ヶ月、良く運動し、食事制限をしていたら、カップ麺が食べられなくなってきた。
現在、家に5個買い置きがあるが、まったく食べる気にならない。
まあ、良い事なのであろう。

そんな訳で、今回買ったのは、五穀がゆ等。
まずは、黒粥を食べてみる。

黒ゴマ、黒豆、黒米と書いてある。
なかなかあっさりしておいしかった。

自費出版というものは

リアル鬼ごっこを斜め読みした。
内容的に趣味じゃないのと、文章が下手なので、斜め読みになった訳だけど、あとがきを読むと、自費出版で20万部売ったと書いてある。
それはたいしたものだ。
文章うんぬんよりも、感性が受けたという事らしい。
通常の出版ルートであれば、文章の出来で、まずはねられていたであろう(出版は叶わなかったであろう)、とあとがきに書いてあったが、確かにそうだ。
自費出版という特殊なルートだからこそ、出版が叶い、結果としてブレークしたのであろう。

自費出版と言えば、僕も最初の本は、自費出版だ。
当時は、「本を出版した実績があれば、有事の際(会社を辞めた時、会社が合併された時など)に有利だろう」というのが、本を書いた動機なので、売れるかどうかは二の次で、本を作る事自体に目的があった。

つまり、出せればいいや、という感じ。
それが、最初香港の日本語書店(旭屋書店)に置いてもらい、それが思いもよらず売れた為、(ビジネス書なので、数千部の話だが)、日本の流通に乗り、次からは、出版社リスクで本が出せる様になった。
そんな感じで、とんとん拍子に話が運んだのは、幸運と、その時の編集者の頑張りも大きな要素だ。

どの世界でも、飛び込みというのは話が極めてまとまりにくい。
出版業界も会社組織なので、失敗を極端に恐れる(金額の多寡の問題ではない)。
そのため、原稿を持ち込んでも、通常出版してもらえる可能性は殆どない。
その意味で、自費出版でまず出してみて、何らかの方法で流通させてみるというのは、一つの方法だ。

そんな事を考えて、4~5年前に自費出版ビジネスをやろうと考えた。
自分が本を出す過程で、本を製作する手段、香港、日本で流通させる手段を手に入れていたので、それを、有効活用しようとしたのである。
これが、全くうまくいかず、一冊も制作できなかった。

自費出版で本を作るには、工場で製本をするだけで、100万円弱の実費が必要だ。
これに、デザイン・校正・編集が必要なので、その人件費(外注費)を加えれば、本を1000部程度作るのに(本の冊数が増えても、そう費用はかわらないが)、150万円程度が必要となる。
これは、対象となる原稿が、きちっと出来上がっている前提だが、文章が完成していない、つじつまが合わない等の原稿が持ち込まれる場合が多く、その場合は、編集者に多大なマンパワーが要求される。
いくら、流通に回らないと言っても、文章的に問題があるものを出版すれば、会社の信用に関わるので、編集の手間はそれなりにかかる。
それを考えれば、200万円で請負っても、殆どもうけは無い事になり、流通に流す事ができない本であれば、やらない方がよいという判断になる。
ただ、払う側から見れば、200万円のコストは馬鹿にならない。
そんな訳で、高い(依頼者側)vs 安い(作成者側)のギャップが生まれる訳だ。


自費出版は、流通に流れる事は保証されない。
というか、通常は、出来あがった本を、依頼者に渡して終わりである。

図書流通は、極めて保守的な業界なので、本を作るよりも、流通に流す方がはるかに難しい。
リアル鬼ごっこは、執筆者と出版社が、コストを負担し合って完成させ、流通に流した様であるが、自費出版を請け負う会社が、流通に出す手段を持っており、更に、販売が見込める原稿であれば、こんな方法もありだと思う。

子会社のチェイスチャイナは、ビジネスコンテンツの販売を目的とした会社だが、まだ、設立1年と歴史が浅い事もあり、コストがかからないインターネット販売に特化している。
ただ、将来的には紙媒体にも広げるつもりであり、現在の活動は、ライター(ビジネス書を書ける人材)発掘も目的にしている。
この準備段階を経て、将来的には、ビジネス誌・ビジネス書を出版、流通させてみたい。

その際には、まず自費出版から手掛ける事になるのであろう。
ただ、マンパワーの関係もあるので、これをやるのは、数年先の話になろうが・・・

話変わって、近所の書店で買った、「6時間後に君は死ぬ(高野和明)」を読んだ。
映画は前に見ていたのだけれど、本で読むのは初めてだ。
短編集で、続編の「3時間後に僕は死ぬ」なども収められているが、テンポ良い文章で、タイトルとは違って、人情味のある展開がおもしろかった。
なかなか爽やかで良い本であった。