ドラえもん
夜9時に香港空港着。
木曜日は、朝一に香港で面談してから、広州日帰り出張(香港到着は夜10時半)。
金曜日は、終日香港で面談。
という3日間を過ごしていたので、ちょっとバテた。
勿論、前にも書いた通り、忙しさと精神的な安定は、ある程度のところまでは反比例するので(極限まで忙しいと、さすがにメンタルも余裕がなくなるが)、精神的にはのっている。
ただ、飛行機での移動が多いと、気圧の関係か体がだるくなるし、まだ雪が残る東京から香港に移動すると、気温は20度。この温度差は体に堪える。
移動が多い生活が始まったのは2006年頃からであるが、年齢的に、少々きつくなってきた。
話変わって、木曜日の香港⇒広州の直通電車の中。
香港の電車の中は、携帯の呼び出し音は大音量で、ひっきりなしに電話が鳴っている。更に、会話も大音声。
ともかくうるさくて、居眠りもできない状況だったのだが、最近、短い口笛の呼び出し音を、小さめの音で使ったり、車中では会話をしない、若しくは、小声で話す人で多くなってきた気がする。
良いことだが、何やら香港ではない様だ。
その中、ドラえもんのテーマソング(日本語)を呼び出し音に使っている人がいたようで、しばし、ほのぼのした歌が流れていた。
そうすると、座席の近くに座っていた、数名の子供達が、「ドラえもんだ!」と北京語や広東語で声を上げ、広東語でドラえもんの歌をずっと歌っている子供もいる。
つかの間車中がプチドラえもんワールドとなっていた。
ドラえもんの連載が開始されたのは、僕が小学校1年生の頃の筈。
親から買ってもらった小学1年生に連載が開始されたドラえもんを見て、「面白い漫画だな」と思ったけれど、外国を含めて、ここまで有名になるとは思わなかった。
こんな日常の出来事から、ドラえもんの認知度(特に海外)を再確認する。
連載開始が、自分が勉強を始めた頃(小学1年生)と重なっているので、なんとなく親近感を覚えると共に、その影響力に感服する。
JETROの研修教材販売記念
3泊4日の出張だが、日曜夜着なので、実質的な活動日は2日しかなく、あたふたと仕事中。
本日は、企業研究会主催の外貨管理セミナー。
先日、3月1,4日に、東京でJETRO主催の講演会をする事を紹介したけれど、これは、JETROが発売開始した、中国貿易に関するEラーニング教材のお披露目講演会。
子会社のチェイスチャイナが制作に協力している関係で、僕に依頼が有ったもの。
最初は、保税地域・加工貿易関連1回と、外貨管理1回の依頼であったが、参加希望者多いため、3回(1回追加)の依頼あり、昨日は、更に1回追加で4回となった。
1回2時間で、1日に2回、4日に2回の講演をする事となりそうだ。
しかし、JETROというのは、集客力があるものだと、改めて驚いた。
本を書くと儲かるか
ただ、実直なビジネス書においては、そんな事はない。
中国関係で知名度のある弁護士の方と雑談をしていた時、同氏が「今まで書いた本で、一番印税をもらったのは50万円」、という話をしていたが、これはあながち嘘でもなかろう。
本を書いた場合の印税は、10~15%程度。
15%の印税をもらえるのは、基本的には増刷の場合だ。
印税は、本の出版時点でもらえるので、出版社が初版部数を決めて出版すれば、極論すれば、1冊も売れなくてももらえる。
二度と執筆依頼が来なくなるだけだ。
ビジネス書というのは、3,000冊売れれば、「よく売れましたね」と言われる世界。
2000年代前半の中国進出ブームの時は、中国投資ガイドは初版3,000冊ほど出た。
価格を3,000~4,000円とすると、印税は100万円程度で、共著の場合は、これを執筆者で分けていくので、二人なら50万円という事になる。
執筆には時間と労力がかかるので、100万円という金額が、割に合うかと問われると微妙だが、専門家にとっての本は、金銭を超えた意味がある。
やはり、書店に本が並んでいる事が信用になるし、それを買って読んでいただいた方が、クライアントになって頂ける。
その意味で、講演会と出版(更には、連載)というのは、この仕事を続けていく限りにおいてはやめる事ができない。
僕は、今までに、改定版も1冊と数えれば、単独執筆の書籍は20冊、共著は4冊。
翻訳ものは2冊(韓国出版用と台湾・香港出版用)を出した。
一番売れたのは1.6万部程度出た、「中国ビジネス投資Q&A」だが、これは改訂版を含めた、10年がかりの数字。
最近では、外貨管理、保税区域、加工貿易、PE課税など、テーマをかなり限定しているので、さすがにそれ程の冊数は出ないが、他に、これだけニッチなテーマで本を書く人はいないので、それなりに手堅く(景気に左右されず)出ている。
売れないビジネス書の中での健闘、という感じだが。
仕事の必要性と、何より僕が文章を書くのが好きなので、これからも執筆は続けていくのだが(半年以内に、あと3冊出版予定)、印税は、取材費の足し、という感じの位置付けである。
夢のない話で恐縮だが・・・
飛び込みの店でカツカレー
今回の上海滞在は3泊。
水、木が宴席だったが、金曜日は一人で会食。
どこに行こうか、会社を出てからしばし悩む。
取りあえず、仙霞路 x 安龍路付近に行こうと考え、会社から歩いていく。
歩きながら、上海の寒さにめげそうになる。
元々寒さが苦手だったところに、香港に長年住んだことで、完全に、南方仕様の体になってしまった。
歩いていると、前、横の窓ガラスがぼろぼろに割られている車があり、人がもめている。
どこの車かと思って見ると、中国国産車の様だ。
何事であろうか。
話はそれたが、上海の日本料理店は、変化が激しい。
すぐに店が閉店しては、そのあとに新しい店が開く。
一人だし、空いている店に入りたいと思い、開店早々と思しき店に飛び込みで入ってみる。
真面目そうな中国人が経営者の様だ。
茄子みそ炒め、餃子、ソーセージとジャガイモの炒め、カツカレー、生ビール1杯、日本酒熱燗2合で208元。
料理のサイズは小ぶりなので、一人で食べるにはちょうど良かったが、カツカレーは巨大だった。
目玉焼きが乗っているのが、僕としては嬉しい。
特に美味しい!という訳ではないが、店の人が真面目そうで、居心地は悪くない。
一人でのんびり時間を過ごすには良いかもしれない。
香港ドル10円の時代と15円の時代
最後に、終わりの言葉などを書いているところ。
香港のガイドブックを書くのは初めてだが、僕自身としても知識の整理・再確認になったので良かったし、執筆中に、中国返還時(僕の赴任時でもある)の事を思い出して、懐かしくなった。
1997年は、返還バブルと呼ばれる頃で、景気もよく物価も高かった。
引き継ぎ期間中に、前任者から言われた、「水野君、HK$1は15円だが、10円だと思え。そうしないと、金は使えないぞ」という、強烈で理不尽な言葉が思い出深い。
前任者は、飲み歩くのが好きで、食事にもこだわりが有った。
つまるところは、消費は善(甲斐性)という意見の持ち主だったので、2週間の引き継ぎ期間に、随分お金を使った。
赴任前には、香港から電話がかかってきて、「経理は交際費枠ないから、引き継ぎ期間中の食事は全部自腹だよ。最初の1~2日はおごってあげるけど、あとは割り勘だから、貯金下してたくさんお金持ってきてね」と言われたものだ。
前任者も僕も若かった。
そして、景気が良かった。
当時は、寿司屋のカウンターに座って日本酒を飲むと一人HK$1,500程度。二次会も同じくらいかかったので、一晩HK$3,000消費した。15円換算だと45,000円で、確かに、使う気にならない。
引き継ぎ期間中は、毎晩数名で会食だったし、2次会では終わらず、3次会、4次会まで行く事もあったので、あっという間にお金が消えて行く。
ふと我に返ると、銀行残高が激減しており、「恐ろしい。香港は魔物が住むのか」と思った。
勿論、香港に慣れるにつれて、生活のコツが分かってきて、無駄遣いも減っていったが。
その後、アジア金融危機、SARS、日本の景気の移り変わり、その他の要因が重なって、今の香港の日本人は、昔ほど、威勢よく金を使わなくなった。
僕自身、「赴任早々飲み歩かずに貯金をしていたら、もっとお金がたまっていただろうな」と思うのは確かだが、あの頃は懐かしい。
若かったからか、香港赴任したてで新鮮だったからか、景気が良かったからか。
おそらく全部であろう。
日本のバブルにも似た思い出である。
因みに、ここ数年で進んだ円高で、本当にHK$が10円になってしまったのには驚いた(最近の揺り戻しで11円程度)。円換算すると、15年前より、却って価格が安くなる。
香港居住16年弱。
自分が香港で過ごしてきた期間でも、色々な変化があったものだ。
6個350円のウニの寿司
仕事で牛頭角(香港)まで行き、電車に乗ろうとすると、持ち帰り寿司屋が目に留まった。
すさまじく安い。
ウニの軍艦巻き、筋子とホタテの寿司(写真)が、両方HK$ 32(350円程度)だ。
うに丼は特価でHK$25。
筋子とホタテの寿司は、見たところ美味しそうに見えるが、この安さでいったいどんな味だろうと、好奇心が掻き立てられる。
まあ、外しても笑って済ます事ができる値段だし、万一美味しかったら見っけものだと考え(この時点で、全く信じていない訳だが)、購入する事に。
2パックで、合計700円。
家に帰って食べてみると、さすがに、美味い!とは言えないが、この安さでこの味なら、文句は言えまい。という感じ。
若者のおやつ用に良い。
最近話題になっている、台湾資本の寿司屋の様だ。
犬も歩けば棒にあたる。
出歩けば、いろんなものが目に留まるものだ。
初心に返る思い
深圳特区外の出張は、自動車移動でロスタイムが多いので、結構大変だ。
宝安の工場地帯を見ていると、2008年に起業した直後、毎日の様に、杉山さんや麦さんと一緒に、広東省に日帰り出張をした事を思い出し、初心に返る思いがした。
しばらく、足を運んでなかった事を反省する。
あの時は、過度のハードワーク。
5日連続2時間睡眠で、睡眠不足からくる頭痛に苦しみながら仕事をした事が有ったけど、クライアント様や部下、仲間に支えられて乗り越えられた。
その時の気持と感謝を忘れてはいけないな。と、窓の景色を見ながら思った。
自分の足で動き、人と会い、話して、見て確認するというのは、法律解釈と合わせてコンサルティングの基本。年齢が上がってくると、この部分を、部下に任せて、間接的に情報を吸い上げようと思いたくなるのも確かである。
ただ、オフィスの中でだけ仕事をすれば効率的だが、自分の足を使わないと、コンサルタントとしての判断力が錆びついてしまう気がして怖い。
最近、また業務量が増しているのは確かであるが、時間の許す限り自分で動こうと、改めて思った。
自炊も続くと
録画だが。
事後報告になってしまったけれど・・・
最近、「水野さんのブログを見ると、自宅で鍋を食べ続けており、見ててわびしくなるからやめなさい」と、秘書の水嶋さんから言われる。
性格的に、やりだすと徹底しないと気が済まなくなるのが悪い所で、最初は倹約目的でもあったが、次第に自炊が病みつきになってしまった。
ただ、僕の作る料理というのは、客観的にはたいして美味しくないと思うのだが、自分で作ると、不思議と美味しく感じる。
何時しか、僕としてはあまり好きではない(自発的に使う事はないだろうと思っていた)、ニンジンやジャガイモまで料理に入れだした。
自炊が癖になるというのは、こういう事だろうな。
ただ、わびしいと思われるのは悔しいので、外食と半々にしようか。
返還50年後香港はどうなるか
一国二制度の下、50年間の資本主義の継続が認められる事が、香港特別行政区基本法に規定されており、現時点でも中国本土とは全く異なる経済システムにより運営されている。
ただ、返還時には、50年といえば、永遠とも錯覚してしまいそうなほど先の事に思えたのだが、既に、15年半が経過して、あと35年弱で期限到来となる。
50年というのは、その間に、中国と香港の社会制度・個々人の所得格差が小さくなり、ソフトランディングできるという意味での移行期間かと思うのだが、実際、この15年でも随分大きな変化があった。
返還後、アジア金融危機やSARSで疲弊した香港の経済を復活させたのは、中国本土との自由貿易協定(同一国であり協定という名称は使われていないが、実質的な協定。租税協定も同じ)であるCEPAであり、中国からの旅行者が落とす観光収入であった。
最近でも、オフショア人民元マーケットとしてのポジションを打ち出すなど、中国に対する経済的な依存度は、年々増している様に思える。
あと35年経てば、格差は随分小さくなるだろう。
ただ、計数的な格差がなくなったとしても(若しくは、逆転したとしても)、ソフトの違いは解消する事はないと思うし、その違いは何からくるかというと、社会システムの自由度の違いだ。
香港には、英国統治時代に構築された社会システム、外貨管理・金融をはじめとする、極めて自由な制度、言論・報道の自由等が維持されており、これが、市場の信用を構築している。
インターネットひとつとっても、中国本土では、検閲によるE-mailやインターネット接続の遅さにイラつく事が多いが、香港では、この様なストレスはない。
これが、50年経過後、どうなるのであろうか。
私見にはなるが、返還後、50年が経過したとしても、香港が中国本土と同一の制度になる可能性は低いと思う。
これは、香港の経済の自由度を保つことで、他の軽課税国(BVI、ケイマン、シンガポール等)に向かう投資を、手の内に呼び込むことができ、中国として、最も有利な香港の活用方法であるからだ。
香港返還後、CEPAや租税協定を結ぶことで、香港の自由な経済制度をバックアップしたり、同じく一国二制度下のマカオで、カジノを容認するだけでなく、米国、豪州等の資本の呼び込み、自由競争を助長する事で発展させている動きは、50年経過後の特例措置の継続を想定している様に思える。
また、物流・通関制度などの面で、香港はもっとも完成された保税区域(自由貿易区)であるが、中国は、改革開放当時から、経済特区、保税区、その他の特別区域を設置し、税制、外貨管理、通関管理等の特例を認める政策を取っており、地域を限定した特例的措置を実施する事に付いては、ノウハウもあり、抵抗も少ないと思える。
最近打ち出された、全土の保税区域を、総合保税区として自由度を高めていく方針や、珠海横琴新区、深圳前海湾、海南島での、税制、金融、免税商店関連の措置を見ても、別格の自由貿易区である香港との格差を埋めるテスト措置を打ち出している様に思える。
この様に、経済制度自体の自由度の維持に付いては、個人的にはあまり心配していないのだが、言論・報道の自由などに付いては心配だ。
50年経過後、この様な面での統制が強まれば、間接的に、金融・商流などにネガティブな影響を与える懸念がある。
この点を、中国政府がどう判断するかが、懸念されるところだ。
50年が経過する頃、僕は既に80才を越えている。
返還3か月前に香港に赴任し、返還は香港で迎えた僕である。
50年経過の瞬間も、何が起こるかを、是非、自分の目で確かめたい。