1ヶ月ほど横浜の実家に引きこもっている事になる。
家にこもって分かったのは、一戸建ての有難さで、スペースが広いし、庭がある分、マンションより圧迫感がない。一戸建ての有難さを感じたのは、初めてかもしれない。
その意味でのストレスが少ないのは良い事だが、Email、電話などは別にすると、1か月間はほぼ両親以外とは会話がない事になるので(オフィスに2回行ったので、軽い会話は部下とはしたが)、生活に変化が乏しいのは確か。
数週間前までは、オンライン宴会をする人間の気持ちが分からないと思っていたが、やっと分かりかけてきた気がする。
そんなことで、この日は、仕事をちょっと早く切り上げて、酒を飲みながら物思いにふける。
そういう状況にならないと、分からない事はあるものだ。
ダイエット中
1ヶ月ほど前からダイエット継続中。
鳥取・京都旅行で炭水化物を過剰摂取したというのは有るのだけれど、そもそも、昨年9月両親が上海旅行に来た時から、個人的には過食が続いており、徐々に体重が増えていた。
2016年に65Kg有った体重を、瞬間風速58.5Kgまで減らし、それを戻して60Kg丁度くらいで維持していたのが、この半年で64.5Kgまで増加。さすがに、体調もいまひとつという感がある。去年の年末から体重計に乗らなかったのも良くない。やはり、現実逃避をすると、事態は結局悪化する(現実に向き合う事がリスク回避の鉄則)というのは、ビジネスも体重も同じだ・・・
その後、64.5Kgの体重を、1ヶ月弱で62Kgまで減らした。あと2Kgだ。大学時代から、ダイエットは何度もしてきたので、要領は分かっている。過激な体重減はすぐにリバウンドするので、1ヶ月2~3Kgのペースで落とすのが一番。
今回のダイエットでお世話になっているのが、この紀文の糖質ゼロ麺。過去、何種類もダイエット麺を試してみたが、全て不味かった。だが、これは良い。臭みが無いし、それなりの歯ごたえもある。これで冷やし中華を作ると文句なしに美味しい。これは素晴らしい。
ただ、温かい麺にすると、さほど美味しくない。やはり、短時間でも茹でるのがいけないのか。ここら辺は、あと1ヶ月のダイエット期間が有るので、じっくり試してみよう。
最近の横浜ランドマークタワー
4月20日(月)の事。
サインを要する書類がいくつかあったので、オフィスのある横浜ランドマークタワーに行く。
ビル内の店舗は大部分が閉店なのでがらんとしている。これほど人のいないランドマークを見るとは思わなかった。こうなると、やはり恐怖を感じる。病気というより、経済に対する恐怖の方が大きいのであるが。
ともあれ、明るい未来を信じて、いまは耐え忍ぶのみ。
こんな状況でも、ビル内をいつも通り清掃をしてくれている方がいて、つい、御礼を言う。有難うございます。
久々の京都にて
引き続き、3月中旬の出来事です。
鳥取から京都到着。京都のアポは1件だけなので気楽だ。
駅前のセンチュリーホテルに宿泊。この状況で外国人の旅行者が極めて少ないので、料金もほどほど。
そして、翌日は、駅ビルで喜多方ラーメンを。
炭水化物出張の〆になった。
この翌々日からダイエットを開始(只今、2.3Kg減で、あと2.2Kgを目指して継続中)。
こんな関じで時系列を無視した過去記事のアップはひとまず終えて、次回から現在に戻します。
鳥取から京都へ
引き続き、3月中旬の事。
鳥取最終日は、朝旅館で報告書をまとめ、Emailするとスーパーはくとで京都まで。車両には4~5人しか乗っていない。
電車待ちの時間に立ち食い蕎麦(砂丘そば)を食べて。
関連の方々にも喜んで頂けたようで、短いながらも充実した出張であった。
鳥取での仕事
引き続き、3月中旬の事。
鳥取での仕事日。
朝8時半に旅館を出発し、9時~10時は相談企業の会長と面談。10時半~12時半に対象企業訪問。
12時半~13時に昼食で、13時~14時半が空き時間。14時半~15時半は有力地銀を訪問し、専務取締役と面談。
その後、ちょっと間が空いて、17時半から鳥取の財界の方々と会食という段取りであった。相談者の友人の気遣いで、アレンジがしっかりと決まったので有難い。
これは昼食の担々麺。前日の炭水化物がまだ残っているので、餃子を食べるのがちと辛かった。
そして、1時間半の空き時間を利用して、友人が車を運転して、鳥取砂丘に連れて行ってくれる。やはり、鳥取に来て、砂丘に行けないでは悔いが残る。砂丘が、1時間半の空き時間に、ふらっと寄れる場所であるのは意外であった。
独特の雰囲気で、行く価値あり。
中東に来たような気分を一瞬味わう。
鳥取初日
引き続き、3月中旬の事。
鳥取初日。鳥取駅到着後、宿に直行し、チェックインすると、友人が押さえてくれていた皿蕎麦屋に直行する。
一口ずつ皿に入れて食べるのが、鳥取の蕎麦の流儀らしい。
インターネットで事前検索すると、店の人の感じが悪い(接客が悪い)というコメントのオンパレードだ。とはいえ、事前連絡までしてくれていたので(何時に行けばいいかなど、打ち合わせてくれていたらしい)、地元民同士で仲は良いのだろうと思っていると、「行くのは2~3年に一度だ。高校の時から、あの婆さんが笑ったの見たことない。とんでもねえぞ」との返答。「おいおい(笑)」という感じだ。
そばを食べた後に、街をぶらぶら歩いて、友人行きつけの和食に入る。はっきり言って、駅弁で米を食いすぎ、その後、そばを食べたので、これ以上炭水化物を取るのが辛い状況であるが、日ごろから日本酒好きと言っているので、「日本酒を飲ませねば申し訳ない」と思ってくれたようだ。
満腹ではあるが、良い店(味も雰囲気も)なのでついつい食べて飲む。過剰満腹状態で、鳥取の初日は終了したのであった。
経営コンサルのために鳥取へ
1ヶ月近く前の話になるけれど、大学の同級生の依頼で、鳥取に経営コンサルティングに行った。
結局、この出張から帰ってから、ずっと実家にこもっている訳なので、動き回れた当座最後の機会であったわけである。
鳥取は、実質的に生まれて初めての訪問で、全く土地勘が無い(物心つかない幼少期に行った事が有るらしいのだが)。今回は、友人が、とある企業の専務に抜擢されたので、経営分析をお願いできないかと依頼された訳ながら、その会社は中国とは関係ないし、業種も自分の専門とは違っている。普通だったら受けないところだが、任地に戻れず、じっと家にこもる生活にも飽き飽きしたので、好奇心もあり、出向く事にした。
鳥取砂丘コナン空港にはJALが飛んでいないので、電車でゆっくり行く事にする。新横浜から新幹線で2時間。スーパーはくとで3.5時間。それに、家から新横浜までの時間や、京都駅での待ち時間が有るので、なんだかんだで7.5時間かけて鳥取着。飛行機で上海に行った方が、よっぽど近い。
朝食を食べずに家を出たので、まずは、「朝のおにぎり」と銘打った弁当を買うが、朝のという割にはすごい分量だ。そして、横浜の人間としては、乗り物に乗るとシウマイを食べたくなるのは身に着いた性(さが)だ。
京都駅で昼食用の弁当を選ぶ。
850円程度の「のり弁」に惹かれたが(フライト焼き鮭も入っている)、京都らしいものを食わねばと思い直し、1,100円のきつねご飯弁当にする。まさに、思った通りの味だったが、原価はのり弁以下ではないか。ちょっと解せぬ気持にはなる。
こんな感じで鳥取到着し(さすがにくたびれた)、友人と合流すると、蕎麦屋⇒日本料理屋に。
こんな日々(過食傾向の日々)が続いたので、帰ってすぐダイエット開始。むべなるかな。
SARSの時と比較して
横浜の実家で在宅勤務を続けているが、仕事は、ここ一週間、徐々に忙しくなってきた。やはり、中国が正常化してきているので、それに付随して打ち合わせ依頼(電話会議など)が増えてきたという事だ。
やはり、現地(中国本土)への思いたち難し、というところはあるが、仕事が戻ってきているのは良い事だ。
この状況で思い出すのは、2003年のSARSのことだ。あの当時、日本では感染者が出なかったので、日本にとっては対岸の火事だったと思うが、自分は渦中の香港にいたので、個人的な恐怖は、今より強かった。700万人程度の香港で、2,000人弱が感染。300人程度が死亡。更に、初めての経験で、最初は出歩くのも怖かった。
とはいえ、それ以上に仕事が進まない恐怖が強かった。2002年は人生最高の年(少なくとも仕事上は)で、初めての本を出し、それが書店で大好評となり、コンサルティングを開始すればトントン拍子に契約が取れ、NHKの出演も決まった。有頂天になっていた頃に、SARSですべてが止まってしまった。焦ったのも致し方ない。ただ、収束すれば、全ては元に戻ったのだが。
いま焦りが無いのは、仕事・会社が安定しているのと、年齢(若くない)が理由か。
とはいえ、安定したと言えば聞こえはいいが(それなりに良い事でもあるが)、会社がどんどん伸びている、というわくわく感を、周りの人に与えていないという事で、これは反省すべきことだ。そんなことをふと考え、反省し、これから何をするかを考える日々。
これがきっかけになって、新しい一歩に繋がるとよいのだが。
雑感
思いもよらず、3ヶ月弱の日本滞在。更に、数か月続きそうな勢いだが、ともあれ、2020年第一四半期は黒字を維持できそう。勿論、大喜びという数字ではないが、この状況下では健闘した方だろう。そして、電話会議ベースでの打ち合わせは増えている。やはり、現地が通常稼働しているので、日本と中国で電話、ビデオを通じての打ち合わせで、仕事が進められるのは大きい。
そして、実家に、これほど長く居続けるというのは思いもしなかった事態で、これはこれで一つの副産物か。
大学の時に見た夢で、記憶に残っているものがある。20代の自分が失踪して、数十年行方不明になるというもので、ひょっこり実家に帰り、仏壇に手を合わせていると、そこに入ってきて驚く母親に、「ゲームは終わったよ」という。それだけの夢。
その後、海外主体の仕事となって(まあ、電話もあるし、しょっちゅう日本に帰れるのだが)、海外滞在累計25年になった事を考えると、不思議な余韻を、いまだに感じる。まあ、そういった海外生活が、少しの間休憩になったという感じか。
まだ、ゲームは終わっていないが。