1.中国
中国では、1989年の6・4事件の翌月に中国入りしたが(実務研修)、場所が福建省だった事もあり、のんびりしていて緊張感は無かった。
怖かったのは、もう少し日常的な事。
深圳で自動車専用道を猛スピードで走っている時に、前を走っている巨大なトラックのタイヤが外れ(タイヤは2重)、僕の車をかすめてガードレールに凄まじい音を立てて激突した事がある(タイヤも巨大で、乗用車の屋根ほどの大きさがあった)。
0コンマ何秒くるっていたら、運が良くても大怪我は免れなかっただろう。
あと、2000年に、福州市で昼に接待をした時の事。
白酒を飲みすぎ、客を送ったら意識を失った。目が醒めたら夜で、医者に聴診器を当てられていた(問題は無かった)。
飛行機が飛んでしまったが、どうしても翌朝広州に着いていないといけなかったので、タクシーで10時間かけて広州に向かった。
高速が繋がっていない時の事、電気も無く真っ暗な山の中を走り続けたが(スピードは出せない)、そこは山賊が出るので有名な場所だった。翌朝無事にたどり着いた時はほっとした。
2.中近東
1991年。湾岸戦争直後で、クウェートの油田が燃え盛っている頃、ヨルダン・シリア・サウジ・カタール・バーレーンを2週間かけて回ったが、初めての中近東なので恐怖感は有った。回った地域は、湾岸戦争で駐在員が避難した地域(危険度が比較的高い地域)。
勿論、駐在員は、僕が訪問する1~2週間前に帰任していたが。
そこでは、シリアでパスポートを無くしかけたり、バーレーンのホテルのサウナが実は同性愛者のたまり場になっていて、しつこく口説かれたり、帰りの飛行機が、クウェート空港に寄る事が急に決まっておびえたり等の出来事が有った。
ただ、後から思うと怖かったのは、僕の出張の6年後、ヨルダンで使い込みをしている現地社員がいる事が分った時。それを発見した駐在員が、逆に冤罪で(不正社員の策略)警察に捕まりかけた。僕が発見していたら、同じ事が起こっていたのだろうか(その当時不正をしていたかは定かではないが)。
僕の出張目的は事務所の運営状況の確認で、伝票・帳簿の確認は、形式的なものでよかった(アラビア語が分らず技術的に困難である事と、ヨルダンでの作業時間が半日しかなかった事を考慮しての指示)のが、逆に幸いした。
3.おまけ
2003年に、台北で講演会を開いた後、主催者の方に日本食屋に連れて行って頂いた。
そこに、阪神タイガースにドラフト1位で入団し、台湾の球団に移籍して間が無い中込投手がいた(野球に興味が無い僕は、その時、中込選手を知らなかったが)。日本から取材に来たTV局関係者7~8名と一緒であったが、お互いの主催者が知人だった事から、僕も一緒のテーブルに座る事になった。
僕も若かったので、中込選手(僕より年下)に、「主役なのはわかるけど、先輩選手が酒作ってるんだから、一緒にやった方がいいんじゃない」などと言って(後から思えば大きなお世話の発言だ)、次第に険悪な雰囲気に。その内、一触即発の状況に。
ただ、お互い酔ってくると、不思議に会話が弾むようになり、中込選手は僕の事を真澄ちゃん、真澄ちゃんと連呼する。その内、僕の隣に席を移動。一次会が終わると、真澄ちゃんが行かないと俺も2次会には行かない。と彼らの主催者に宣言したので、結局、僕も2次会に駆り出される事になる。
一次会では「何が起こるか」と、全員緊張した顔で見守っており、2時間程度は、会話をしているのは僕と中込選手だけという状況だったが、最後は和やかに食事を終えた。
ホテルに戻った僕は、インターネット検索をして、「あ、有名な選手だ」と驚いた。
ただ、打ち解けてから(同氏が僕の隣の席に移動してから)、利き腕を触らせてもらったら、一般人の太腿よりも太い腕は、あり得ないほど堅かった。
「喧嘩にならなくてよかった。この腕で殴られたら一発で終わりだ」と、心からほっとした。ドラフト1位で球団に入る人間の体力は、一般人には想像できないものがある事を知った。
あとから思うと怖かった事
振り返ってみると、その時は何とも思わなかったが、後で考えると怖かった事がいくつかある。