管理部門の独立採算化

これは、僕が正しいとか、間違っているとかいう問題提起では全くなく、一つの考え方・価値観であり、僕の思い出話なのだが・・・

31才の時に経理部の集合研修があったが、その時、僕が発表を希望したテーマは、経理部の独立採算化であった。
これは、発表前に、チーム長からあっさり却下された。
その後、35才で管理職昇格論文を書いた時も、僕の主張は、管理部門は各部が分社化して、独立採算制を採用すべきだというものだった。
論文では、同じ業務(例えば経理)で、複数の会社を作り、競争させると共に、社内倒産制度や、社内訴訟制度も作るべし、とか、グループカンパ二―(グループ内の管理部門の会社)ではなく、弁護士・会計士・コンサルタントの起用でも代替できる社内制度にして、外部とも競争させるべしという内容も織り込んだ。
結構、過激な内容だったので、書いている自分でも、そんな事が実現するとは思っていなかったが、その数年後に、丸紅の管理部門の大部分が、実際に分社化した(今では殆どが元に戻っている筈だが)。
当然、僕の論文が元でそんな大きな動きが起こる訳はないので、社内の役員の多くが、そういった考えを持っており、たまたま僕が似たような論文を書いたという事だ。
勿論、(混乱・業務への支障をきたしてはいけないので)現実の分社方法は穏やかであったが。

それはともあれ、そんな主張を繰り返している時、実際に独立採算化して、内外部との競争にさらされたら、自分自身が生き残れる(内外部の競争に勝ち残れる)自信があったか、というと、そうではなかった。
何分、フィーを稼いだこともなかったし、35才で経験も浅かったので、自信があったとすれば、単なる盲信だ。
ただ、そんな環境の中でも勝ち残れるようになりたい(そんな自分になりたい)と思っていた事は確かで、口に出しす事で自分を追い込もうとしていた訳である。

若いころの僕は、金銭を通してこそ、パフォーマンスに対する評価の明瞭化、義務・責任の明確化が図れ、プロ意識の向上につながると考えていた。
勿論、会社の管理部門の枠組みの中で、プロの仕事をしている人はいるのは確かだし、その方々を否定する気は一切ない。
単なる若手時代の僕の考えだが、ともあれ、そんな厳しい環境に身を投じて、自分の能力を高めたい、と考えていたのは確かだ。

管理職昇格論文を書いた翌年(2001年)、折からの中国進出ブームを受けて、図らずしもコンサルティング業務をやってよい、という許可が現地法人の主管者から出た。
ビジネス化できなかったら、自分の存在・能力の否定にもつながるので、若干怖かったが、それでも、喜び勇んで、コンサルティングの事業化を模索した。
初めてフィー収入を得たのは、2001年10月。
初めてから半年後の事であり、その後、2004年には、(経理部とコンサルティング部と切り離して)営業部としてコンサルティング部を設置。
2006年には、丸紅100%出資のコンサルティング会社として、香港、上海で分社した。
そして、2008年に、(これは意図した事ではなかったが)独立起業して今にいたっている。
結果として、管理職昇格論文の内容を、少なくも僕自身は実践した事になる訳だ。

ただ、この過程は、なかなか厳しかった。
2001年当時は、誰からも期待されていなかったので、年間500万円のコンサルティングフィーを稼いだだけで、凄い凄いと褒められたのが(当時は経理主業務、コンサルティング副業だった事もあるが)、別会社化すると、2億円のフィーを稼いでも、取るに足らない言われ、閉鎖方針が出てしまった。

そんな感じで、実際に自分で収入を得る事の苦しさが分ったが、喜びや面白さも分った。
そして何より、世界が広がった。
一歩、違う世界に踏み出した事で、随分、いろいろな経験や知識が得られたと思う。

人の価値観はいろいろだし、その分、失ったものもあるのだろうが、そんな点を含め、僕個人としては、当時の考えを実行に移してよかったと思う。

自宅でエビのオリーブオイル焼き

15日(木)の講演会の日に、若干体調を崩したので、昨日は若干ペースを抑えて仕事。
夕食も家で食べる事に。
自炊する事に決め、City Superに、帰宅前に買い出しに行く。

久々にCity Superに行くと、食べたいものがいろいろと目に飛び込んでくる。
あれこれ迷って、1時間くらい買い物に費やしてたが、結果、エビをたくさん買い込む。
ホイルにオリーブオイルをひいて、ガーリックを加え、塩コショウしたエビをオーブントースターで焼くだけの簡単な料理。
見てくれは良くないが、なかなか美味しい。

一緒に買った、伊勢海老のくず身を同じように調理してみる。
これはいまいちだった。

ともあれ、ビール(2缶飲んだ)がたいそう美味しく感じられた。
これも、忙中閑有り、という感じ。
体調もずいぶん回復。

独立起業に年齢は関係ない

起業独立する時に、何人かの方から「独立するのは20~30代が普通。40代は難しい、もしくは、最後のタイミング」と言われたけれど、自分で経験してみれば、年齢は関係ないと思う。
若ければ情熱があるし、年齢が上がれば、ビジネスに必要な人間関係やスキルが構築されている。
双方、一長一短だ。
ただ、独立1~2年は本当に大変で、体力的に厳しいので、年齢が関係するとすれば(年齢が上がってから独立するのが難しい部分があるとすれば)、ここであろう。
ただ、環境が変わり、事業を起こせば気合も入るので、1年は体力が持つはず。
あとは、如何にこの高いテンションで駆け抜けるかだ。
必要なのは、熱い気持ちだ。

また、最初はどれだけ自分で完結できるか、という点が重要だ。
起業3年半経過した現在、社員が20名となっているが、最初の数か月は僕一人だった。
コンサルティングは当たり前だが、僕一人しかいないので、自分で契約書、請求書を作ったし、封筒のあて名書きをし、郵便局に投函に行った。
当時45才だったので、本社にいれば部長席という年齢だが、一人で事務作業をする事を、不思議とわびしいとは思わなかった。
会社を安定稼働に乗せる、という至上課題があったので、苦しくても当たり前だと思っていた。

40~50代以上で(一定の地位を得てから)独立起業する人の場合、秘書がいないとだめ、綺麗なオフィスが無いとだめ、車がないとダメ、という発想をされる方がいるが、最初からこの意識だと苦しいのではないか。
稼ぎの中からしか金は使えない。
無いならないで、如何に経費をかけずに切り盛りするかを、考え、実行に移せなければ資金が続かない。
「贅沢は1年(収入が増えるまで)我慢する!」と心に誓って、その目標に合わせて、ビジネスを開拓すればよい。
まあ、僕はまだ、贅沢するには至っていないが。。。

ただ、瓢箪から駒という感じだが、最初の数か月、会社の中の作業を、自分ひとりで、何でもやった事は自信になった。
会社のオペレーションが、自分で全てイメージ・把握でき、最悪、何があっても自分一人でできる、という自信が持てたからだ。

3年半経過した事で、独立当時の出来事は、過ぎた日の事となりかけているが、これから独立する方にコメントするとすれば、「年齢は関係ない。ただ、夢と熱い気持ちは必要」という事だろう。
僕もまだその途上ではあるが。

深圳講演会と蕎麦人のそば

深圳蕎麦人の合いもりそば

3月15日は深圳で政策金融公庫主催の講演会。
22日(木)は広州で自社企画講演会、23日(金)は広州でJETRO主催講演会と、9日間で、広東省内で3件講演会を開く。
自分自身でパイを食い合っている様な気がしないではないが、久々の広東省での講演会続きだ。

ただ、ここのところ、仕事の無理が続いていたので、昨日は体調が崩れ、若干後悔が残る出来栄えだった。
週末、しっかり体調を調整して、ベストの状況で広州での講演会に臨もう。

講演会が終わると、蕎麦人で会食。
〆を、蕎麦の合いもりにするか、たぬきそばにするかで少々迷ったが、合いもりそばに決定。
美味しかったが、過労で体がきつく、一人で先に香港へ。
0時過ぎに就寝。

送別会はスイス料理とジャズバー

上海から香港に移動すると、チムサッツイに直行。
仕事でお世話になった方の送別会だ。
この時期、送別会が多く、若干胃がつかれているが、そこにスイス料理。
チーズ料理はきついが、送られる方の指定だけにやむを得ない。
この料理店は、新しいオフィスの隣で、前から気にはなっていた店。
ビールを飲んでチーズフォンデュ―。
考えてみれば、スイス料理を食べるのは生まれて3回目。

ムール貝やハム盛り合わせなども食べる。
美味しいのだが、スイス料理は写真映えがしない・・・

バーを探しに歩く写真(上)と代わりの店に入ったところ(下)

それが終わると、何故かランカイフォンに移動して、思い出のバーという場所に出かけるべく歩き出すが、秘密結社の様な場所という言葉の通り、分かりにくい場所で、更に既につぶれていた。

やむを得ず代わりのジャズバーに。
音楽と酒を堪能。
ただ、食べ過ぎ飲み過ぎだ・・・

本の執筆

2002年4月に最初の本を出して以来、共著、DVDを含めれば、21冊本を出している。
Q&Aの改訂等を冊数に含めれば25冊以上出版しているので、毎年平均2.5冊という感じであろう。
やはり、1年間本を出さないと、「最近、彼(水野)を見かけませんな」などと言われてしまうので、ともあれ、継続的な出版は必要だ。

たまに聞かれるのは、「知識の何%くらいを本で開示していますか」という事で、半分程度しか開示していないのではないかと思われている節がある。
ただ、実際には、その時の知識の8~9割は開示している。
ところが面白いもので、大部分の知識を本にまとめた場合、そこから半年程度経過して振り返ると、本の知識の倍以上の知識が付いている。
やはり、調べ直す、考え方を整理する過程で、能力が向上するし、書いた事に対して、色々なフィードバックがある(情報が集まる)。
出し惜しみをして、一部分の知識を作品にすると、この様な能力の向上も不十分なまま終わってしまう。

過去の10年は執筆⇒成長の繰り返しであった。
最初の本を思い出すと、あんな知識で本を書いた自分が恥ずかしい、と思う訳だが、これも、執筆しながら知識を身につけたという事だろう。
打算が無く(あまり深くものを考えず?)、出し惜しみをしてこなかったのが、却って良かったのではないかと、10年経過した今では思っている。

タヌキうどん玉子入り

8日(木)の昼食はそばだった。
僕は、麺に天かすと玉子を入れるのが好きなので、そばにせよ、うどんにせよ、だいたいこの組み合わせを注文する。
ただ、その日は注文時、クライアントの方に、「大阪のきつねとたぬきは東京と違いますよ」と言われ、そういえば、以前も関西の人に言われたな、と思い出す。
ただ、どれがどうだったか思い出せない。
聞くと、「両方油揚げがのっています。きつねがうどんで、たぬきがそばです。たぬきときつねは、そばかうどんかの違いです」と説明される。
「それは分かったが、どうやって天かすが入ったそばを頼めばよいんだ!?」と頭を悩ましているところに、注文を取られたので、結局、単なる天ぷらそばを頼んでしまった。

この雪辱を果たさねば、と夜は、うどん屋に連れて行ってもらい(大阪は、絶対そばよりうどんが美味いですと言われ、うどんに軌道修正)、単刀直入に、「うどんに天かすと生卵を入れてほしいんですが、どうすればいいんでしょう」と聞く。
「かけうどんに、トッピング天かす玉子ですね」と言われ、あっさり問題解決。
案ずるよりも生むが易しだ。

ただ、これは、過去に大阪人何人にも聞いたが、誰からも明確な回答が取得できなかった点。
こう注文すればよかったんだ、と妙にうれしかった。

因みに、天かすはメニューになく無料だった。

燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや

燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや、というのは、高校の漢文の教科書で習った言葉で、陳勝・呉広の乱を起こし、秦朝崩壊のきっかけを作った陳勝の言葉と言われている(後世の脚色という意見もあるが、それはさておき)。
日雇い農夫だった陳勝が、天下を語って馬鹿にされた時、この言葉を吐いて、意にも解さなかったというのが史実であり、「小鳥にどうして、大鳥の志が分ろうか」と訳されている。
ただ、ニュアンス的には、「雑魚(ざこ)に俺の気持ちが分るか」という感じが近いのではなかろうか。
高校でこの言葉を習った時に、格好良いなと印象に残った。
さすがに、口に出す事は無かったが、ただ、こんな言葉を胸に秘めておくのは、夢を持つ人間には良いのではないかとも思う。

何かを成し遂げたいとき、世の中変えたいとき、成し遂げたい夢を胸に秘めている時、思わず周りに話して、「そんなの無理だよ」と言われた人は多いのではなかろうか。
ただ、大多数の意見を聞いて、物事を成し遂げた人間はあまりいなかろう。
自分の信念と努力が世の中を変えるのだ。
世の中の定義が、世界であるか、町内であるか、会社であるか、はたまた自分自身であるかは問わない。そんな事は小さな問題だ。
ともあれ、思う気持と努力が必要だ。

とは言え、人間誰でも不安と自己不信で折れそうになる事がある。
人に言われた言葉に、ふらふらとなびきそうになる事もある。
人間、本心から自信満々の人間はそんなにいないし、いたら、そんな人間は、かえって(単なる能天気で)成功しない。
ともあれ、心が折れそうになった時、「俺の志が分ってたまるか」くらいの不遜な言葉を胸に秘めて、やせ我慢して頑張るのもよいのではないか。
どうせ失敗したら、自分が責任を取る訳だ。
人の言葉におびえて自分を曲げるよりは、不遜な一言でも胸に抱いて頑張った方が良い。
殊勝な言葉と態度だけでは、世間の荒波は渡れない時もあるものだ。

まあ、喧嘩になるので実際に人には言わない方が良いと思うが・・・

客は神も特定条件下での事

1985年、大学時代に中国に行った時、一番印象に残ったのは、サービス業の態度の悪さだ。
例えばレストラン。
店員が笑わないどころか、注文を取りに来ないし、手を挙げれば目をそらす。
売店もしかり。
この状況は、競争原理が働かない状況だったというのが重要なポイントなのだが、もう一つの要因として、物資が不足していた事だ。

お客様が神様、というのは、物資・サービスが潤沢にある状況で初めて当てはまる言葉であって、物資が不足している場合は、物を持っている方が立場は強い。
つまり、店主・店員は神様という事になり、お願いして物を売ってもらわなくてはならなくなる。
物資の豊富な中、生まれ育ってきた僕には、そのギャップが鮮烈であった。
腹を立てる外国人も多かったが、冷静に考えれば、状況の違いだ。

あれから27年経過した中国、少なくとも沿海部では、サービス業の愛想がよい。
随分横柄な客も多い。
如何にもお客様は神様という状況になってきた。
経済の変化は、人の気持ちをこんなにも変えてしまう。
27年の変化を考えると、非常に興味深い。

大阪出張・忙中閑あり

一週間ブログが止まっていたが、大阪に行っていた(2泊3日だけだが)。
特定案件(1件のみ)での出張だったので、飛行機代を節約しようと、香港・大阪往復約25,000円の香港エクスプレスを手配。
今年に入り、オフィス拡張・人員増等で経費増となるため、旅費も削らねば、と安いチケットの使用が増えてきた。
今のところ、移動を減らすわけにはいかないので、うまく安いチケットを使えるかが経費節減のポイントとなる。

とは言え、慣れのせいかもしれないが、東方空港も快適に使用しているし、今回の香港エクスプレスも、サービスにも問題なく、特に、大阪⇒香港便は、非常口隣の席が3席とも無人だったので、席を移動して悠々と仕事をしながらの帰任。
体のダメージも少なかった。
まあ、収入の増加が経費増に追いついたら、変更が聞かない安いチケットでの移動はやめようと思っているのだが、まずは収入増達成が先。
もうひと頑張りだ。

さて、大阪では昨日、数時間ぽっかり空いてしまった。
クライアントの方が、「では、ミナミにお連れしましょう」と、典型的な大阪の風情を鑑賞。
グリコの看板を見たり、くいだおれ人形を見たり。
大阪はもう何十回も来ているが、こんなものをのんびり見る時間はなかったので、なかなか面白い。

そしてたこ焼き。
焼き立てが美味しい。
お好み焼き、たこ焼きにあまり興味がない僕でも美味しかった。
風情を楽しみながら食べたからであろうか。

まさに、忙中閑あり、という感じ。

中国ビジネスコンサルタント水野真澄のブログ