金門島を臨む海岸で

一国両制の大看板と歩哨所跡

コロンス島参観の前に、小金門の対岸の海岸に行く。
ここは、中国本土側は、「一国両制統一中国」の大文字が、金門島側には、「三民主義統一中国」の文字が、相手側に向けて掲げてあるので有名。
要塞跡・歩哨所跡も残されており、かつての軍事的な緊張をしのばせる。

僕が台湾で研修生をしていた時代(1988~89年)は、台湾の戒厳令が解かれて間がない時であったし、一般人は、金門島は訪問できなかった。
それが、現在では、廈門からフェリーで金門島まで行けるようになっている。
時代は変わったものだ。

今回の廈門は、久々にのんびりできた。
週末、仕事を忘れられたのは久しぶりだ。
廈門は、気候も良く、人も穏やかで本当にいい街だ。
すぐにでもまた行きたくなる場所。

今回は、僕にとって、生まれて初めての社員旅行であったが、和気あいあいという感じで、社員同士の交流も深まったようで、いいことだ。

今年度も全拠点黒字を実現させて、来年は海南島に行きたいものだ。


コロンス島で日光岩観光

下から見た日光岩と墜落注意の看板

2日目は廈門観光をした。
これまた丸紅廈門時代の部下だった呉君が、今では車のレンタル業をしているので、2台借りて半日ガイドをお願いする事となった。

観光場所は、海辺(小金門島の対岸)を車で流し、その後コロンス島。
コロンス島には何度も行ったが、全て出張者のアテンド(スーツを着た状態)で、日光岩に登った事がない。
今回は、是非、ここに登ろうと決めていた。

日光岩を下から眺めるとこんな感じ。
登るだけで60元というのは高いが、観光地であり致し方ない。

急な階段で、至る所に墜落注意の看板が掛けてある。
そりゃあ注意するわなあ、という感じだ。

日光岩の上から

岩に登ると廈門島が良く見渡せる。

上に登ると思ったより高く、風が強くてちょっと怖かった。

岩の至る所に人がいる。
転がり落ちそうな錯覚を覚えるのでちょっと怖い。

ともあれ、初めての日光岩観光は、思ったより楽しかった。
小一時間もあれば観光できるので、一度は価値がある。

そう何度も行く場所でもないが・・・

社員旅行初日は廈門で海鮮

ホテルの部屋と窓からの夜景(コロンス島が見える)

福州から再度電車に乗って廈門到着。
廈門駅周辺はタクシーがつかまりにくい。
結構歩き回って、やっとつかまえる。

何やら真面目そうなタクシーの運転手で、黙々と運転をしていたのであるが、突然、振り返りもせず、「請問」という。
何を聞かれるのかと思うと、「上着を着ていると暑くありませんか?」という事であった。
「いやいや、携帯電話3個と名刺入れが入ってるんで、上着を着ないと不便なんですよ」と回答。

廈門のホテルはウィンダムホテル。
1年ほど前にできた5星ホテルだ。
従業員のサービスは、まだ不慣れな感があるが、設備は立派だ。

部屋はこんな感じ。

夜は海鮮。
上海からの飛行機が遅れて(香港、広州からの便は遅れず到着)、開始が8時半からになってしまったが、ともあれ、シャコ、ロブスター、ガルーパ等を堪能する。

そんな感じで集合写真。
今回は亀一をはじめ、日本勢は不参加。
代わりに(?)丸紅廈門時代の部下の陳君が駆けつけてくれた。

思い出の温泉大飯店

福州駅と温泉大飯店の部屋

香港から1時間の飛行で廈門到着。
すぐに廈門駅までタクシーで行き、電車で福州に移動。

廈門・福州間の快速は、数か月前に開通したとの事で、2時間弱で福州に到着する。
研修時代(1990年)は、車で6時間かけて移動していた訳だから、便利になったものだ。

宿泊は、研修時代住んでいた温泉大飯店。

部屋はほぼ昔通り。
僕は、昔住んでいた思い入れがあるので、喜んで泊るのであるが、普通に見れば、五星ホテルにしては、古びた感じで期待外れという事になるのだろうか。
思い出というのはすごいものだ。

これは、エレベーターの前にある服務台。
今は人がいないが、当時は、常時ここに服務員がいて、見張っていた(?)ものだ。

とは言え、皆な、同年代(20代)の女性だったので、娯楽が全くなかった当時の僕は、毎晩、ここで2~3時間、服務員と立ち話をしていた。
それが唯一の娯楽だった。
孤独は癒えるし、語学の勉強にもなるし、一石二鳥。

話は変わるが、移動中に、小学生時代の事を考えた。
小学校時代の僕は内気で、小学校に入学した時、最初、トイレの場所が分からず(人に聞けず)3日間ほどトイレに行けなかった。
入学数日後に校内を歩いていて、トイレを見つけた時は嬉しかったものだ。

こんな内気な人間だったのに、今では平気で海外に行き、交渉もすればプレゼンもする。
人間、経験で性格も変わるものだ。

今日から廈門・福州

今日から4日間の福建省。
福州1泊・廈門2泊。

廈門は初めての社員旅行だ。
社員が4か所(日本、上海、広州、香港)に散らばっていて、お互い顔を見た事がない、という部下たちがいるので企画した社員旅行。
公式行事は金曜の夕食だけで、あとは自由行動というゆるいスケジュールなので、海鮮を食べてのんびり過ごそう。

という事で、また、福建省から交信します。

コットンクラブで打合せ

日本の最終日、高田馬場で打合せがあったので、カフェコットンクラブで昼食を取りながらという事になった。

ここは、僕が大学1年の時に開店した店で、当時の早稲田には不似合いなおしゃれな店であった。
最近では、高田馬場にも洒落た店が増えてきたが。

大学時代の僕は、いつもさえない格好をしていたので(合気道に明け暮れる、男ばかりの生活だった)、1~2回しか行った事はなかった。
最初に、僕に輪をかけて服装に気を使わない合気道の先輩と、男二人で行った時は、完全に浮いていて、さすがに居心地がわるかった。

頻繁に行くようになったのは、中国研修から帰って、早稲田に住むようになってから(26~30才の頃)。
会社の後輩、近所に住んでいた大学時代の親友と、月に何度も来たものだ。

当時は地下のバーだけだったのが、1F、2Fにレストランができ規模拡大。
僕は15年ぶりくらいの訪問になる。

2Fのテラス席でパスタを食べる。
あと、当時好きだったフローズンストロベリーダイキリも頼んでみる。
当時は、花は添えられておらず、男が飲んでもそれほど恥ずかしくない外見だった気がするが・・・


最後に、昔懐かしい地下のバーを見学させてもらう。
次回はバーに来るとしよう。

五穀がゆを買い込む

今回買ったおかゆ

日本から香港へ移動するので、食材を買い込んだ。
前回までは、カップ麺(蒙古タンメン中本、一風堂など)を買い込んだが、ここ一ヶ月、良く運動し、食事制限をしていたら、カップ麺が食べられなくなってきた。
現在、家に5個買い置きがあるが、まったく食べる気にならない。
まあ、良い事なのであろう。

そんな訳で、今回買ったのは、五穀がゆ等。
まずは、黒粥を食べてみる。

黒ゴマ、黒豆、黒米と書いてある。
なかなかあっさりしておいしかった。

自費出版というものは

リアル鬼ごっこを斜め読みした。
内容的に趣味じゃないのと、文章が下手なので、斜め読みになった訳だけど、あとがきを読むと、自費出版で20万部売ったと書いてある。
それはたいしたものだ。
文章うんぬんよりも、感性が受けたという事らしい。
通常の出版ルートであれば、文章の出来で、まずはねられていたであろう(出版は叶わなかったであろう)、とあとがきに書いてあったが、確かにそうだ。
自費出版という特殊なルートだからこそ、出版が叶い、結果としてブレークしたのであろう。

自費出版と言えば、僕も最初の本は、自費出版だ。
当時は、「本を出版した実績があれば、有事の際(会社を辞めた時、会社が合併された時など)に有利だろう」というのが、本を書いた動機なので、売れるかどうかは二の次で、本を作る事自体に目的があった。

つまり、出せればいいや、という感じ。
それが、最初香港の日本語書店(旭屋書店)に置いてもらい、それが思いもよらず売れた為、(ビジネス書なので、数千部の話だが)、日本の流通に乗り、次からは、出版社リスクで本が出せる様になった。
そんな感じで、とんとん拍子に話が運んだのは、幸運と、その時の編集者の頑張りも大きな要素だ。

どの世界でも、飛び込みというのは話が極めてまとまりにくい。
出版業界も会社組織なので、失敗を極端に恐れる(金額の多寡の問題ではない)。
そのため、原稿を持ち込んでも、通常出版してもらえる可能性は殆どない。
その意味で、自費出版でまず出してみて、何らかの方法で流通させてみるというのは、一つの方法だ。

そんな事を考えて、4~5年前に自費出版ビジネスをやろうと考えた。
自分が本を出す過程で、本を製作する手段、香港、日本で流通させる手段を手に入れていたので、それを、有効活用しようとしたのである。
これが、全くうまくいかず、一冊も制作できなかった。

自費出版で本を作るには、工場で製本をするだけで、100万円弱の実費が必要だ。
これに、デザイン・校正・編集が必要なので、その人件費(外注費)を加えれば、本を1000部程度作るのに(本の冊数が増えても、そう費用はかわらないが)、150万円程度が必要となる。
これは、対象となる原稿が、きちっと出来上がっている前提だが、文章が完成していない、つじつまが合わない等の原稿が持ち込まれる場合が多く、その場合は、編集者に多大なマンパワーが要求される。
いくら、流通に回らないと言っても、文章的に問題があるものを出版すれば、会社の信用に関わるので、編集の手間はそれなりにかかる。
それを考えれば、200万円で請負っても、殆どもうけは無い事になり、流通に流す事ができない本であれば、やらない方がよいという判断になる。
ただ、払う側から見れば、200万円のコストは馬鹿にならない。
そんな訳で、高い(依頼者側)vs 安い(作成者側)のギャップが生まれる訳だ。


自費出版は、流通に流れる事は保証されない。
というか、通常は、出来あがった本を、依頼者に渡して終わりである。

図書流通は、極めて保守的な業界なので、本を作るよりも、流通に流す方がはるかに難しい。
リアル鬼ごっこは、執筆者と出版社が、コストを負担し合って完成させ、流通に流した様であるが、自費出版を請け負う会社が、流通に出す手段を持っており、更に、販売が見込める原稿であれば、こんな方法もありだと思う。

子会社のチェイスチャイナは、ビジネスコンテンツの販売を目的とした会社だが、まだ、設立1年と歴史が浅い事もあり、コストがかからないインターネット販売に特化している。
ただ、将来的には紙媒体にも広げるつもりであり、現在の活動は、ライター(ビジネス書を書ける人材)発掘も目的にしている。
この準備段階を経て、将来的には、ビジネス誌・ビジネス書を出版、流通させてみたい。

その際には、まず自費出版から手掛ける事になるのであろう。
ただ、マンパワーの関係もあるので、これをやるのは、数年先の話になろうが・・・

話変わって、近所の書店で買った、「6時間後に君は死ぬ(高野和明)」を読んだ。
映画は前に見ていたのだけれど、本で読むのは初めてだ。
短編集で、続編の「3時間後に僕は死ぬ」なども収められているが、テンポ良い文章で、タイトルとは違って、人情味のある展開がおもしろかった。
なかなか爽やかで良い本であった。

毎週土曜日の憂鬱

毎週日曜日の午前中までに、NNAの中国ビジネス講座(月曜連載)の原稿を提出しないといけない。
NNAと時事通信の連載は、同じような内容ではあるのだが、NNAは速報、時事通信は若干時間がたった内容の掘り下げ(解説)という形で、一応は使い分けている。
と言う訳で、NNAの連載は、法制度が変わらないと書くネタがない。
毎週土曜日に執筆するので、手放しで週末を喜べないし、ネタがない時は憂鬱だ。

昨夜も、ネタがなくて悩みに悩む。
思えば、2002年1月から8年半、400回以上、一度も落とさずに続けているが、「今回は提出を免除してもらえないかなぁ」という思いが、何度頭をよぎった事か。

商務部、国家税務総局、外貨管理局のHPを見直し、外貨管理局が7月30日付で公布していた、中国企業の対外保証の通知を見つけ、取り合えず、これに付いて解説する事にする。
既に、1996年・1997年に公布されている弁法の一部修正なので、それほど重要なインパクトはないのであるが、背に腹は代えられない。
まあ、今までの弁法よりも、金融機関の場合、非金融機関の場合(外資企業を含む)双方の対外保証差し入れルールが、明瞭に規定されているので参考にはなる通知だ。

ただ、書き上げるまでに2時間。
1200字程度の原稿を書くのにこの時間、というのは、少なくともこの1年の最長記録だ。


話変わって、丸紅香港財務の夏栗君から、「香港で人民元借り入れをしました!」という連絡がきた。この話は、新聞などでも報道されていた。
先日のブログで書いた、7月19日の香港における人民元業務自由化の影響で、香港における人民元調達が可能になった。
これを受けての借入実行だ。

数か月前には、丸紅上海の谷垣君から、「日本企業として初めて、日本に人民元送金をしました」という連絡があったし。
こんな感じで、ここ半年で、急速に人民元の規制緩和が行われている。
昔の同僚が、それにキャッチアップして、いろいろトライアルをしているのは、なかなか頼もしい。

制限された範囲で、人民元の国際化が急速に進められている。
これを、ビジネスにどの様に有効に活かすか。
この仕組みを真剣に考える時期が来ていると言えるであろう。

日本の通勤はまさに苦行だ

東京駅23時50分

海外生活が長いと、日本の通勤の辛さが身にしみる。
7月は一週間の日本出張であったが、連日、都内、千葉、横浜をバタバタと駆け回った。

宴席は2回だったが、僕の家は、かろうじて23区内というロケーションなので、都内で飲み終わってタクシーで帰ると、7千~1万円かかる。
飲み代とタクシー代がたいして変わらない値段になるので、タクシーで帰るのは、何となく悔しい。
ただ、酒を飲んで、満員電車に押しこまれて帰るのは、日本勤務時代は当たり前だったが、香港、上海で、タクシー帰宅の生活に慣れると、当たり前だった事が、非常に辛い。

金曜日は新橋で飲み終わったのが23時半。
そこから、数回電車を乗り換えて、帰宅したが、毎回電車の出発が遅れに遅れ、帰宅するまで2時間半かかった。
満員電車に乗ってから、汗を流しながら、重い鞄を持って、走り出すのを待つ事数十分。
それをひと夜で何度か繰り返し。
東京駅では、気分が悪くなった人がいたのが理由とかアナウンスしていたが、こんな状態じゃあ、気分も悪くなるであろう。

日本の生活、飲んでから帰るのがまさに苦行だ。

中国ビジネスコンサルタント水野真澄のブログ