台湾を訪問すると、条件反射的にほっとした気分になる。人は親切で、街はお洒落で食事も美味しい。自然は豊かで、まさに完璧な観光地だ。
ただ、僕が1年研修した1988年当時は、今とは随分違っていた。戒厳令が解かれて間が無い頃で街はくすんでいたし、日本統治の名残で日本語ができる方は多かったが、(少なくとも僕個人は)あまり親日的とは思えなかった。タクシーの運転手は粗暴な人間も多く、人々の当たりも強いので、毎日の様に腹を立てていた。だから、当時の僕は台湾が好きになれず、台湾を離れてからはじめて、懐かしさがゆえに心惹かれる場所になった。実務研修した福建省も同じであるが。だから、10年、20年でこれほど変化したというのは、素直に驚きを感じる。
台湾の変化に付いていえば、豊かになったのも理由であろうし、両岸関係の緊張緩和も一因として有るだろう。1988年当時、喫茶店で独習をしていた僕の隣に、中学とおぼしき女学生二人が座っておしゃべりをしていた。その彼女たちが、ごく自然な口調で「移民するならどこがいい?」と話しているのが聞こえてきて驚いた。日本人なら留学は有っても、移民という言葉を自然には出すまい。当時は既に両岸の衝突危機は薄れていたとはいえ、目に見えない緊張が漂っていた気がするし、彼女たちの会話は、それを表す一つのエピソードだったと言えよう。
そして当時の僕も今から比べるととんがっていた。台湾の1年は、日本人と交流すると語学習得の妨げになると考えて接触を避けていた。毎日10時間の授業を取っていたので、交流する時間自体もなかったが。結果として、友人と呼べる日本人はおらず、師範大学の同級生だった韓国人と語学塾の若い教師(台湾人)くらい。台湾を離れてからも交流が有ったのはこの二人程度だった。韓国人の友人は、さばさばした性格で気が有ったし、中国語の水準が同じだったので、会話していてフラストレーションを感じる事が無かった。前のブログで書いた、師範大学付近のバー(ROXY)でビールを飲んでとりとめのない話をしたというのは、韓国人の友人だ。
当時の僕は、「仕事をしないでここにいるのだから、人より中国語がうまくならなければ、僕の人生(会社員人生)は終わってしまう」といつも焦っていた。今から思うと子供だったが、地位も実力も無いが、可能性は無限にあったあの頃が懐かしい(戻りたくはないが)。
久しぶりに訪問した台湾で、昔の事を思い出した。台湾も変わり、僕も少なからず変わった。
ただ、台湾を訪問して思うのは、今の台湾は住むには本当に良い場所だと思うが、良い場所過ぎて(生活の緊張感がなさ過ぎて)仕事をするのが却って辛くなってしまいそうだという事だ。僕自身には、生き馬の目を抜く香港や、緊張感が有る中国本土の方が、仕事がしやすい。これも性格か。だから、僕の生活は、これからもこんな感じなのであろう。