人事異動の季節

4月は人事異動の季節なので、ここ数週間で、前職の同僚との再会、近況報告、はたまた人間関係の相談などを、少なからずもらった。
その中で、会社を辞めて後悔していないか、という質問も何人かから受けた。
気遣いから出た言葉ないので、有りがたいのは確かだが、こうして気を遣わせてしまうのは、若干心苦しい気もする。

退職は、何度も書いたが、安定した収入と、自分のやりたい事の二者択一の結果であり、後悔した事は、一度もない。
ただ、自分のやりたい事の中には、僕を信頼してくれるクライアント様や部下を裏切らない、という事も含まれているので、そのプレッシャーがないと言えばうそになる。
今では、自分の生活だけでなく、25人の給与を払い続ける(生活に責任を持つ)必要があり、20年後、30年後も会社が隆々としている様に、責任を持って運営していかなければいけない。
とは言え、これは会社員のままであっても同じ事だろう。

結局、どんな選択をしても、人生は苦しい。
年齢と共に、責任が増すのは誰でも同じ。
ただ、苦しみの先に喜びがあるから、人は頑張るのであろう。
人生は苦しく、そして素晴らしいものだ。

ここ数日間

今週は、日本、香港、中国本土の休みが重なり、しばらくぶりにゆったりできた。
とは言っても、実際には、ここ数か月のオーバーワークがたたって、心身ともに疲弊しており、PCの前に座るのもつらい状態だった。
極力体を休めて体力の回復を図っていた、というのが実態だが。
おかげで、今日、やっと気力がまた満ちてきた。
自分の体の状態をから、頑張るのも大切だが、適度な休養は必要不可欠だと、改めて感じた。

やっと体力が回復したので、今週末は、中国外貨管理マニュアルの校正ゲラのチェックをする予定。
外貨管理マニュアルは、1回増版したものの、既に完売(プロモーション用の控えも売ってしまった)との事で、早く出版したいところ。
今週末に作業が終われば、6月には改訂版が出版できると思う。


海外戦略の構築に際しては

昨日は、アパレル・靴関連の方と会食。
古くから、中国、アジアで仕事をしている方なので、お互いの興味が一致して、(会食中は仕事の話をしない僕としては)日本企業の海外戦略の立て方、ASEAN各国の状況などを、ひたすら語った。

国の発展を分析すれば、まず、開発途上段階の場合、加工貿易モデルが適した形態となる。
つまり、販売市場、調達市場が共に成長していないため、原材料の輸入、製品の輸出という形態の製造が適しているためだ。
この場合、日本企業としては、相対的に低付加価値の加工をその国で行う事になり、進出地選定のポイントは、コストの安さ、保税輸入制度の有無などが重要となる。
その後、産業集積が進むと、それに付随して国内の調達市場が構成され、加工貿易モデルから、徐々に非保税モデルの製造に移行する。
非保税モデルに移行すれば、国内販売が可能であり、販売先の多様化が実現する。
この段階になれば、販売会社、物流会社の進出が加速する。
その後、所得が向上すれば、国内の購買市場が発展するため、当該国の位置付けは、製造場所ではなく、販売先ととらえられるようになる。
この購買(販売)市場の発展段階において、初期は国内製造⇒販売が有効であり、その後、(この段階となると)製造コストが高くなる事から、国外製造⇒当該国の輸入販売という形態にシフトするようになってくる。
簡単にいうと、国の産業の発展というのは、この様なステップで進む訳なので、各国が、どの様な状況にあるかを分析し、それに合わせて企業の進出地を選定しないといけないと考える次第。

つまり、その国で作りたいのか、その国に売りたいのかを明確にする必要があるし、それに際しては、当該国における市場(販売市場・調達市場)の有無、成熟度合いを分析しなければ方針決定は当然できない。
中国とカンボジアやミャンマーを、同レベルで比較するような論調がはびこっているが、これはまったく無意味だ。
もっと深い分析をしなければ、海外戦略などは立てられない。

そんな訳で、いま、僕自身で中国、アジア各国の状況調査をし始めており、年内に、具体的で明確な意見が出せる様にしたいと考えている。

僕の会社は、現在のところ、中国関係業務の収入が99%であるが、数年かけて、中国8割、その他2割という形に持っていければと考えている。
中国業務を維持・拡大しつつ、アジア関係等の収入を新規開拓していくわけだ。
ただ、人より知っている事がビジネスの大前提であるコンサルティング業種で、今からアジアの個々の国に拠点を出し、コンサルティングを行う事は、考えにくい。
ただ、十数年コンサルティング活動を行っている関係で、アジアに複数拠点を構築している提携先や、ネットワークが開拓できている。
また、20代の頃から、国際間のビジネスモデル構築の仕事をしているため、その意味でのノウハウはあるつもりだ。

起業5周年(コンサルティング開始12周年)。
一息ついたと思いきや、新しい課題は次々と出現するものだ。
新しい分野の開拓は、楽しいのも確かだが。

学生さんと話して

昨日は、日本、中国本土が休みのため、リラックスムードの一日であった。
午後に、香港に留学している学生さんと面談。
最近、知人を通して、若しくは、ブログから直接、大学生の方からの面談依頼をよくいただく。
人生の後輩に自分の経験を話す事は、先輩の役割だと思っているので、なるべく時間を取って話すようにしている。
特に、見知らぬ人に直接面談依頼をするというのは、僕が学生だった頃は、やろうとも思わなかった(思いついてもヘジテイトしてできなかった)だろうから、その様な連絡をもらうと、たくましいな、と感心する。
社会に出ると、この様なたくましさは絶対に必要だ。

昨日話したのは、自分の半生(なぜ商社に入り、中国を希望し、コンサルティングを始めたか)。
商社の機能。
大企業に就職する事と、ベンチャー企業に就職する事の違い。
という点。

自分の人生は、自分に選択する権利がある訳なので、会社の選択なども、正解は人によって違うのだろう。
ただ、僕自身は、商社を希望したことも、丸紅に入社した事も正解だった(幸運だった)と思っているし、コンサルティングを始めて、起業した事も、必然だったと思っている。
とは言え、まだ人生の半ばで、これからまだ20年は働き続けなくてはいけない訳だから、引き続き悩みも喜びもあるのだろう。
その意味では、ちょっと早く社会に出たとはいえ、社会・人生と戦い続けているという意味では同じ。
僕自身、この先に振り返った時、良い人生だと言えるように頑張るし、後輩の皆なもそうあってほしいな、と思う。

PCの思い出

思い出話だが、僕が新入社員だったとき(1987年)は、課にデスクトップのPC1台しかなかった。
課とは言っても、課員が40人くらいの大きな課だったので、1台というのは今から思うと想像できない少なさだが、当時はPCを使用する人間はほとんどおらず、いつも空いていた。
1990年に海外研修から経理に戻った時、まずは、PCのデータインプット担当になったが、当時使用していた国産PCは、計算機能が非常に悪くたいした表計算ではなくても(400×10程度の行列計算)、30分くらい固まってしまった。
そのため、計算機能がY、Nという指定ができて、まず計算機能をNにしてインプットを完了させてから計算を実行する(30分以上動かないので、その間ほかの仕事をやる)という面倒さ。
1994~95年に、IBMのPCに切り替わった時、一瞬で計算が完了するので驚いたものである。
同時に、社内ランやE-Mailの使用が開始され(最初は、電子メールとか呼んでいた)、ラップトップのPCが2人に1台支給された。
随分便利になったと喜んだが、仲の悪い人間でPCをシェアすると大変だ。
(経理部だけに)負債という単語を打とうとすると、シェアしている人間が良く使うのか、夫妻と変換され、「あいつは仕事してるのか!」と怒っている人間がいたりした。
思い出深いのは、1996年に経理部の泊まり込み研修が有った時、PCの有効利用という様なテーマを任された班の発表者が、「PCが増えてきたのはありがたいですが、目標は一人一台です」と発言し、部長が、「分かった」と回答したので、みんな喜んでいたら、その後1~2年で大幅な人員削減が有って、部員が半分近くに減ってしまい、ちょうど(PCを増やさなくても)一人一台になった。
僕の所属していた海外経理課というのは、20人くらいいた大きな課だったが、僕が海外赴任した後に、課がなくなった。
後から思えば、そういう事だったのか!と、してやられた感じであった。

僕は字が下手なので(更に書くのが遅い)、人があまり使わない頃から、ワープロ代わりにPCを使用していたが、20代の頃は、使用する人間は少数派だった。
それが、僕が社会人になってから25年ちょっとで、PCが無い生活は考えられなくなった。
そう思うと感慨深いものがある。

移動前に明日葉でランチ会議

昨日、上海から香港に移動。
本日(土曜日)は中国本土が業務日なので仕事中。
明日は日帰り深圳。
日本、中国本土、香港のどこかが業務日だと、仕事をしなくてはいけないのが辛い所であるが、忙しいのは良い事だと思おう。

そんな関係で(昨日言われた様に)、今日は、元気ですという事を報告するだけの更新。
昨日は、上海で朝10~11時に面談。
その後、空港移動前に、当社松本顧問と昼食を取りながら打ち合わせ。
11時半~12時15分という短い時間しかなかったので、オフィスの近くにある明日葉。
僕はラーメン定食(これに餃子2個が付く)。
松本顧問はトンカツとカニクリームコロッケ定食。
大変おいしい。

餃子を食べるためのラー油が無かったのが残念だったが、ラーメンはあっさりして僕好み。
次回は、カツカレーを試してみよう。

常州訪問

仕事が非常に忙しく、ブログがまた一週間止まってしまったら、とある方より「急に1週間も止まると、何か問題があったかと心配するので、生きてますとか、忙しいですとか、一行でもよいので更新してください」と言われる。
以前も、読者の方に、同じ事を言われた事があり、もう少し小まめに更新せねば、と改めて思う。

昨日は、進出を手伝ったクライアント企業様の開業記念式典に招かれ、常州市に行く。
和階号で上海より50分(帰りは途中駅で停まらなかったので30分ちょっと)。
非常に近い。
時間が短く、限られた場所しか見ていないのだが、新しい街であり、清潔で落ち着いている。
そして平和そうな雰囲気。
これほど良い場所だとは思わなかった。
感じとしては、15年ほど前の蘇州という感じで、今後伸びるだろうな、と思わせる場所。
国家級高新開発区の誘致部の方々も、僕の本を読んでいる、という事で挨拶をしてくれる。
シャングリラホテルの食事に満足して、夜8時半の便で上海に。

前海湾訪問

日帰り深圳出張で、深圳前海湾保税港区に。
管理委員会と面談。
具体的な案件が有る訳ではないけれど、5月22日のセミナーの前に、ここの状況を最終確認したかったもの。

さて、年初より全力疾走を続けてきて、ふと思えば、あと4ヶ月ちょっとで起業5周年(6年目)だ。
コンサルティングを始めて12周年。
必死で走ってきたので、あっという間という気もするが、本当にたくさんの事があった。
日本にも、中国にも、僕自身にも。
思い出をたどると、時間の長さを感じる。

起業初年度から、利益は計上し続けているので、最近、色々な方から「安泰でしょう」と言われる。
ただ、20年後、30年後に、会社がしっかりと存続しており、更に、今より大きくなっているのが必須と考えているので、その意味では、まだ危機感を持って経営しているし、日々が戦いだ。
僕は、性格的には明るい方だと思うのだが、楽天的か悲観的かと言えば、悲観的だ。
そんな訳で、気苦労は絶えないが、必死さ・危機感というのは、楽天家は実感しにくいので、その意味では経営者は悲観的なくらいがよいだろう。

ともあれ、5周年というのは、起業時に意識した節目なので、その意味では感慨深い。
今年の9月1日は、何らかの形でお祝いしよう。
そして、今の自分と会社があるのは、確実に皆様の支援のおかげなので、改めて感謝の気持ちを持たせて頂こう。

バーで生活にアクセントを

ブルーベリーのカクテルは、3口飲んでから撮影(出てきたときはもっと美しかった)。

昨日は、香港のオフィスで、クライアント企業様限定の無料講習会(第2回)を開催する。
1.5時間 x 2コマで、終わったのは17時半。
それから、クライアント企業の方と面談し、業務を整理すると19時。
このまま家に帰って自炊しようかと思ったが、2日連続で自炊していたので、気分を変えてみたくなった。
当社(香港オフィス)の近くに、バトラー(Bar)があるので、オフィスを出ると直行。
早かったので、客は僕一人だけ。
時間を間違えると、座席が無い店なので、早めの入店がポイントだ。

ビール、ワイン、パスタを食べて、周りを見回すと、他の客(途中から入ってきた2人連れ)が飲んでいる紫のカクテルが目に留まる。
早速僕もお願いする。
ブルーベリー○○マティーニ(○○の部分は忘れてしまった)との事だが、素晴らしく美味しい。
9時前に店を出て、0時前には就寝。
自炊すると、なんだかんだで、だらだら飲み続けてしまうので、たまにこんなアクセントをつけるのは良い事だ。
精神的にも肉体的にも(昨日は疲労困憊だったのが、今日は見違えるように体調が良い)。

一週間ぶり(上海の状況)

一週間近くブログが止まってしまっていた。
先週火曜日に広州で市政府の会議に出席し、その後、香港経由上海に移動。
日曜日に香港に移動。
というスケジュールであった。

上海では、連日宴席という状況。
うどんすき(田家)、ラーメン(たいしょうけん)をはじめ、いろいろな店に行く。
たいしょうけんは、どこかのフリーペーパーに、日本の大勝軒で修行をした中国人の方が開いた、という様な紹介があった気がするが、記憶があいまい。
ただ、人と話をしている折に、たいしょうけんに行ったという話を2人から連続して聞いたので、注目の店に違いないと思い、宴会で使用した(招待いただいた方にお願いして、そこにしてもらった)。
メニュー数が多いので、ラーメンもある居酒屋という感じ。
つけ麺を〆に頼み、これはおいしかったのだが、既にお腹がかなり膨れていたので、5人の参加者のところ2杯頼んで分けたのに、半分も食べられなかったのが残念だ。
ボリュームがかなりすごい。

鳥インフルは話題にはなっているが、2003年のSARSの恐怖と比べれば、現段階の規模では、あまり気にはならなかった(気にした方がよいのだが)。
僕自身の経験で言えば、17年間の中国滞在で一番怖かったのはSARSで、あの漠然とした恐怖と街中の異様な雰囲気は、今でも記憶に残っている。
ともあれ、SARS時に身に着けた習慣に基づき、手洗いとうがいを励行する。
そんな感じで、今回も、たくさんの方と会い、食べ、飲み、笑った上海滞在であった。

中国ビジネスコンサルタント水野真澄のブログ