引き続き週末

昨日は、夕方まで原稿を書いて、ジムで7Km走り、とい週末の平均的な生活を送った後で、夕食を買いに、City Superにいく。

丁度、先週買った「キャビアもどき(HK$ 40~50で買ったもの)」があったので、DVDでも見ながらシャンパンを飲もうと考えたのである。
モエシャンドンを一本買い、あとはいつもの冷凍食品(八宝菜、麻婆豆腐、ラーメン)。
それに、カニクリームコロッケなど数種類をテイクアウト。

DVDは、前回日本で買った、ルネクレール監督の「巴里の屋根の下」。
これは、トーキー初期作だ。
僕は昔、不思議な子供であった。
小学校6年生の時に、同じくルネクレール監督の「巴里祭」に感動して、クラシックな映画が好きになり、「望郷」・「天井桟敷の人々」・「或る夜の出来事」等がTVで放映されると、嬉々として見ていた。
「巴里祭」主演のアナベラが忘れられず、高校一年の時に、岩波ホールに「巴里祭」を見に行ったりもした(あの頃は、TVで放映されない限り、見たい映画もなかなか見られなかった)。
あと、小学校4年生の頃から古典落語の本を読みあさり、円楽、志ん生、志ん朝、小さん等のレコードを聞いて、自分でも話したりしていた。
そして、それ以外の時は、学校から帰宅して寝るまで、クラシックギターを弾いていた。
そんな、マニアックな子供だったので、中学校の頃、部活に入らなかった(自分で好きな事をしたかった)のは、今ではちょっと後悔している。
10年間、あれほど熱中したギターも、今では弾けなくなってしまったし。

ともあれ、シャンパンとキャビアもどきを楽しみながら、巴里の屋根の下を見る。
30年前の様な感動はなかったが、ほのぼのした感じが楽しめた。
しかし、巴里の屋根の下の主題歌は、当時映画を見た時、一度聞いただけなのに、ずっと耳に残って忘れなかったのは、たいしたものだ。
実に、シンプルで分かりやすい名曲。

そんな感じで、子供の頃に戻った気になったら、どんどん当時の記憶をたどってインターネット検索を始めてしまい、クラシックギター(山下和仁、荘村清志)から、武満徹のノベンバーステップスまでたどり着き、不覚にも明け方就寝となってしまった。

平和な土曜日

クライアントの方から頂いた質問は、金曜の深夜までかけて全て回答したし、珍しいことにNNAの原稿も、先週末に3回分提出済みだ。
一応、11月中盤のセミナーのレジュメを3回分作らなくてはいけないが、まあ、これは一刻を争う訳ではない。
という訳で、やらざるを得ない事がない、という久しぶりの週末だ。
何をして過ごそうかと朝起きて考えたが、結局、来年早々出版予定の原稿を書いてしまうのは、貧乏性というべきか・・・

ただ、会社の経営論、経営者の資質、心構えなど、いろいろ場所で議論が交わされているが、僕の場合は結局、本能のおもむくままというという感じだ。

知りたい事があるから研究する。
問題・トラブルを解決したい、という本能があるから現場に行く。
会社を成長させれば達成感があるし、自分に自信が持てるから必死になる。
本を書くのが好きだし、伝えたい事があるから書く。

寝る時間を削って働いたりもしているが、純粋に本能通りの行動で、やり始めると、自分で自分が止められないだけだ。
疲れて動けなくなったら、自動的に休憩する(元々、持久力はあまりないが)。
という訳で、努力というのとは、ちょっと違う気がする。
言わぬが花ではあるのだが。

大変でしょうと言われるが、実際には、楽しんでいる。
だから、ストレスが全くない。
ストレスが無ければ、体のしんどさはさほど問題にはならない(ヒマでもストレスがある生活の方が、比べ物にならないくらい辛い)。

独立から2年間走り続けて手に入れた、充実した時間を過ごしている。

走り続ける事

人間、ずっと同じペースでの全力疾走はできないもので、僕自身も、2009年9月、2010年8月というのは、ちょっとペースダウンした。
これは、一周年・二周年の節目で、ちょっと安心した為だろう。
ただ、この2ヶ月間は、我ながら本当によく仕事をしている。
2ヶ月半で、1日(土曜日)休んだだけかな、という感じ。
その時は、やる気はあったが、体が動かず、1日中寝ていた。

ただ、今は、仕事をしているのが面白いし、今までの仕掛けが、歯車がかみ合って、全体が大きく動き出す感覚を味わえている。
今働かないと後悔すると思う。

思い返せば、こんな感じで、楽しく、満足感を持って仕事をするのは、2002年以来の事であろうか。
初めて僕の原稿が公開されたのは2001年の上海エクスプローラーで、それから、香港ポスト、銀行の機関紙、NNAと連載が始まった。
2002年には本を2冊出版して、これが予想外に売れたので、NHKの連続出演にも繋がったし、社内で無理だろうと言われていたコンサルティングの仕事も、予想を裏切り順調に開始した。
その時は、やることなす事が全て上手くいって、何をしていても楽しかった。
それが、2003年になると、周りのプレッシャーがきつくなってきて、2004年から夜電気を消して寝られなくなった。
2005年からはストレスで喉のリンパが腫れてしまった。
2007~2008年は、不用のトラブルが続き、厄年恐るべし(数年ずれていたが)という感じであった。
ずっと長い間、仕事をするのが辛かった。

そんな長いトンネルを抜けて、やっと全てから解放され、前向きに登って行くぞ、という気になれたのは嬉しい。
ただ、辛い時でも、歯を食いしばって続けていた事が、今に繋がっている。
ずっと順調で苦しさのない人生なんてのは、なかなか送らせてもらえないのだろう。
でも、先が見えにくくても、走るのをやめなくてよかった。
まだこれからだ。

租税条約適用手続と企業小説

上海と広州の配当手続を行っている。
上海は、資本金で払い込んだ米ドルが、まだ余っているので米ドル配当、広州は人民元配当となるのだけれど、人民元の配当送金許可はあっさり取れた。
ただ、香港に対する配当だと、企業所得税の源泉徴収が5%に減免されるので(通常は10%)この租税条約適用に関する税務局の許可に時間がかかっている。

国税発[2009]124号だと、事業所得・労務所得は届出制(基本的には、手続だけでOK)なのに対して、投資所得は許可制なので、審査に時間がかかっているものだ。
広州は2ヶ月でやっと取得。
上海はまだ手続中。
一度取れば、3年間は有効な筈であるが、初回は時間がかかるので面倒だ。

話変わって。
子供の頃から本を読むのが好きだったので、中学生の頃は、推理小説作家になりたいなどと言っていたのだが(さほど真剣に考えた訳ではないが)、トリックを1個も考え付かなかったので、作品ができなかった。
作家になる以前の問題だ(前提からして間違っている)!

その後、会社で経理の仕事をしたので、金銭トラブル関係の手口は考え付くなと思い、5年ほど前に、珠江デルタ式来料加工を使った事件のトリック、ストーリー展開を考えた。
横領に関わる経理トリックで、これに気付いた社内監査部の人間が、深圳で事故死するのが小説の発端。探偵役は当然、香港現法の経理部長だ。
森村誠一が高層の死角で乱歩賞を取った時、撰者の評に、「この作者のホテル知識に驚いた。ホテルマンでないかと思ったくらいだ(森村誠一は本当にホテルマンだったが)」と書かれていたのを読んだ事がある。
そんな訳で、こんなニッチな手口を網羅すると、撰者に、「中国コンサルタントではないかと思ったくらいだ」とか書かれるぞと、ほくそ笑みながら、導入部分を書いたのだが、本業のビジネス書の執筆が忙しく、数年間止まったままになっている。
そうしたら、珠江デルタ式来料加工(廠形式を利用した来料加工)が、廃止の方向に動いている。
廃止までいくかどうかは分からないが、ともあれ、広東省は2012年末を目途に、廠の法人転換を行う事を明文化している。
廃止されたら小説の題材自体が使えなくなってしまう!
これは困った。
既に、導入部の税関の描写からして、実態とと違ってしまっているし(ここ数年で、中国の入国審査官の愛想が非常に良くなったので、最初の重苦しいイメージの描写が使えなくなってしまっている)。
2012年までに書くか!?
無理だろうなあ。

こ熊やで鬼太郎の会

曾我・瓜生・糸賀法律事務所の水野海峰弁護士・岩井弁護士と会食をした。
1ヶ月ちょっと前に引き続いての会食であるが、前回の講演会の上海限定打ち上げと、鬼太郎の会の発足を祝ってのものである。
鬼太郎の会というのは、単に、僕が主催する飲み会で、呼び名はスナフキンの会(生き方)でも鬼太郎の会(外見)でも、どちらでもいいのだけど、まあ、語呂の良い鬼太郎の会にしたものだ。
祈念写真を諸事情で飛ばしてしまったのが痛恨であるが、「こ熊や」でいつものメニューを堪能した。
ついでに浦霞純米吟醸も美味しかった。

最初にたのんだ、「カニみそウニ」を食べて、「あ~、嫁と子供に食べさせてあげたい」と感動する水野弁護士。
「生後1か月の子供に、カニみそを食べさせるのはよした方がいいぞ」と突っ込みを入れたくなるが、取りあえず、やめておく。
その後、水野弁護士の舌鋒鋭いトークが冴えわたり、大変楽しかったが、書くのはやめておこう。

水野弁護士曰く、「いろんなところで水野さんに間違われるんですよ。この前の講演会でも、質問者の方に、水野弁護士は加工貿易が得意ですよね、と言われて、それは違うと思いますと回答したんですが」との事である。
という訳で、紛らわしいついでに、来年、上海で一緒に講演会でも開こうか、という事になった。
「前回の講演会は、詰め込みすぎましたな」という水野弁護士の意見を尊重し、持分譲渡と合併に絞ろうかという事になった。
来年の2~3月かな。
旧正月明けに、上海で共同講演会を、(おそらく)開くと思います!


会社の成長

僕の会社の人員は、2008年末までは、僕1人(!)だったのだけど、それが2年間で16人に増えた。
増えているのは、上海・広州なので、「中国法人の人材採用のポイントはなんですか?」という質問を最近よく受けるが、回答は「僕は人選しません」というものだ。

起業した時、僕に着いてきてくれた部下は、実は、一人も僕自身が採用していない。
不思議なものであるが、結果、僕が採用したのは、転職志向が高い人間ばかりであったという事だ。
ただ、今の会社では、感覚を変えたい。
なるべく社員に長く会社にいてもらい、自分の会社という感覚を持ってもらいたい。
部下に、子会社の社長を任せたのもそのためだ。

そして、社長(総経理)を部下に任せたのであれば、その会社の一番重要な人材の採用も、彼らの計画に基づいて対応してもらえば良い。
そこに僕が口を挟むと、ややこしい事態になる。
「どの様な人材を、何人雇いたい」という初期的な打診は、彼らからしてもらうが、それに僕が合意すれば、あとは、採用まで、各社の社長に対応してもらう。
業績評価もしかり。
彼らの部下の業績評価や待遇に付いては、相談はしてもらうが、断定的な事は僕からは言わない様に注意している。

当然のことながら、各社の社長を、給与・権限で追い越す様な人材は、(少なくとも、上海・広州・将来の北京では)採用しない。

そんな意味で、人材の育成や組織の構築には、時間がかかるであろう。
ただ、前職の頃(旧M&C)、短期間で人材を確保しろ、組織を拡大しろ、利益を稼げというプレッシャーを受け、焦りすぎた反省がある。
それは繰り返したくない。

体力を超えた急速な成長は、必ず問題を抱える事になると思うのである。

組織作りと今後

今年度も残り2ヶ月ちょっと。
香港、上海、広州の各拠点は、今年度も全店黒字で終わるであろう。
唯一、小幅な赤字が続いていたチェイスチャイナ(亀一=杉山君に社長を任せている)も、何とか新規商材の目処が付いて、近々黒字転換できそうだ。
営業開始が2009年8月であるが、2年経過しても黒字化が実現できなかったら、社長を交代して、僕自身が社長をやろうと思っていた。
その意味では、土俵際で最後の底力を見せてくれつつある状況。
やはり、追いつめられた時の底力(=すごみ)がないと、経営者はできないし、人は付いてきてくれない。
これを、少しでも体験から分かってくれれば、将来の役に立つであろう。

そんな感じで一息つきかけると、上海の記帳代行・申告代理免許を持った会社が、そろそろ稼働開始。
そして、日本・北京の拠点開設を来年に控えている。

やる事は多いし、拠点がどんどん増えていく訳であるが、不要に急ぎたくはない。
組織の構築は人材次第であり、今の手駒だけでは不足している。
日本の拠点は、今年早々から計画しており、既に人材の手は打ってあるが、北京は、まだ、構想段階で、人材確保・資本構成・その他の仕組みづくりには、もう少し時間がかかる。
急いで作って、クオリティを落としてはいけないので、公表2011年春先としているけれど、十分な仕組みが作れたと確信できた段階で、開設手続をしたい。

正直言って、起業2年でここまでできるとは思っていなかった。
これは、起業時に、僕に付いてくれた部下に、上海、広州、チェイスという3拠点の社長(総経理)を任せ、彼らの手腕で店を育ててもらった事も大きな要因だ。
それが功を奏した面があるであろう。

現在のMCHは、社員全体が、当事者意識を持って成長させてくれた会社だ。
そして、顧客・提携先の皆様方に支えてもらっている会社だ。
まだまだ発展途上であるが、この気持を忘れない様にして、経営を続けていきたいと思う。

国際社会の中の日本として

先日の日本出張の際に、また、ここしばらく、色々なメディアの方に何度も質問されたのは、「今回の政治的な問題の中で、香港や中国本土の状況はどうか」、という点と、「ポリティカルリスクを考えた場合の中国は、日本企業の進出先としてどうか」という点である。
それに対する回答は、

前者に対しては、生活実感からすれば、全く何も影響ない。
日本人であるが故に、危険な目にあうどころか、不愉快な目にあった事は一度も無い(2005年の反日デモの時の方が、ちょっと嫌だった)。

後者に対しては、中国にポリティカルリスクがあるのは、何も今始まった事ではなく、昔からずっとそうであるし、今後も変わらない。
という事だ。

海外進出を行うに際し、政治的、宗教的なリスクは避けられない。
僕自身は、1980年代後半に商社に入ったので、不毛地帯に出てくる人たちの様な危険には晒された事は無いが、それでも、6・4事件の翌月に中国に赴任したし、湾岸戦争で油田が盛大に燃えている最中の中近東、それも危険度が比較的高かったヨルダン・シリア・サウジ・カタールを回り、クウェートの空港にも降り立った。
世界でビジネスをするというのはそういう事であり、様々なリスクと向かい合いながら生きていく事である。
そして忘れてはならないのは、既に、日本は鎖国する訳にはいかないという事だ。
世界と向き合って生きていくのは好き嫌いの問題ではなく、日本が生きていくための必然だ。
海外進出を例にとれば、その中で、市場の魅力とリスクウェートを判断しながら、最適地を決めるべきである。

その目で中国を見ると、調達・販売市場の充実、インフラの充実という点では、代替する場所はなかなか考えられないであろう。
その意味で、一義的な進出地として考えざるを得ない場所だと思う。
勿論、リスク分散は必要であり、資金的・人材的な余裕がある企業は、中国一極集中を避け、リスク分散を図るべきだ。
ただ、それができない企業は、海外で行う活動、規模、販路などを研究し、中国が良いのか、その他の国が良いのかを決めるべきであろう。
条件が変われば最適地が変わる事は当然ある。


今回の様な問題が生じるのは、歴史背景や教育に根があるで、これに付いての本質的な解きほぐしは難しい。
ただ、中国でも日本でも、大部分の人は良識を持って行動している。
過激な言動を取る人間は一握りだ。
それがインターネットで増幅され、メディアがそれを報道する事で公認される。
結果として、その国での特殊事象が、相手国では全体事象であるかの様な受け止め方がされ、敵意が増幅されるのである。
過激な意見を解き放てば、悪意が善意を封じ込める。
僕自身、多分にインターネットの恩恵に与っている立場であるが、インターネットによって生じる、この種の悪意の拡散は、言論の自由とはちょっと違う次元の話であり、しっかりした対策をすべきである。
インターネット発の戦争などが起こり得る時代になっている。

今回、中国の対応に疑問を感じる日本の報道が多かった。
この背景は、大国になりつつある傲慢さであろう。
アメリカが良い例だ。
自分の価値観を世界の正義と断定して押し売りするアメリカの傲慢さと、今回の中国の対応がダブって見えるのは僕だけだろうか。
アメリカが、(僕曰く)いけすかない大国であるとするならば、近々中国もそうなる。
その時に、日本はどうすべきであろうか。

外交というのは国益の保護であり、それを踏まえた行動を、どの国も取っている。
日本も長期的な展望に基づいた戦略を立てるべきであろうが、このブログで政治的な発言は避けたい。

ただ、言える事は、日本が存在感を無くせば、世界の中で孤立する(意見が通らなくなる)のは自明の理。
そして、国際社会では、存在感は経済力に限りなく等しい。
資源の無い国として、経済力を維持・拡大していくには、現在、優位的な地位にある知識・技術の一層の向上に努めるしかない。
日本が世界の中で自分を守るのは、経済力の維持でしかない。
その為の十分な対応(経済の活性化と技術やノウハウの保護・育成)を、日本は取っているだろうか。


そして、民間レベルでは、日中の相互理解を積極的に深めるべきだ。
僕自身、何年もかけて親しくなった中国人の友人から、「実を言うと、日本人は嫌いだが、お前の事は好きだ」と言われた事が数回ある。
同じ事を言われた人間は多いのではなかろうか。
僕がそんな事を言われたのは、20代の頃だったので、中国人の深層心理の中に、この様な対日本人感があったと知って驚いたが、それが事実であるとしても、顔が見える具体的な人間関係では、その感情が変わり得るのは分かった。
時間がかかっても、それを広げていくべきだ。
結局、二国間で理解しあうには、相互に対するレスペクトと理解しかない。
歴史が変えられない以上、未来を良い方に変えなくてはいけない。

人を殴るのは簡単であるが、その人間は、殴られる事を非難できない。
そして、それは、周りを巻き込み、そこで動いた歯車は、もう誰にも止められなくなる。
今回の様な事象で、感情的な発言をする人間は、自分の発言が世の中に影響を与えない、若しくは、与えても暴発は誰かが止めてくれると思っているのであろう。
そこから生じ得る暴動、例えば、それにより人に殴られ、殺される人がいる、という可能性を真摯に受け止めている人間はいなかろう。

今回の問題の本質は、何も解決されてはいない。
そして、改善に向けていくには、長い時間と努力が必要だ。
国際社会の中で生きざるを得ない日本が、これから真剣に考えていくべき事であろう。
もう、国際社会で、イノセント(無邪気)ではいられないのである。

健康診断と深圳日帰り

健康診断をした。
前職を辞めるに際して、若干、メンタル面で不安定になったとき、メディポートの堀社長にお世話になった。

それもあり、会社を作ったら、健康診断はメディポートでお願いしようと決めていたのだが、何分、思い返してもぞっとするような過密スケジュールの中、なかなか行く機会が見つからず、2年ぶりの健康診断となった(部下は既に健康診断していたけど)。
最後は、アシスタントの水嶋さんから強制的にアポを入れられた感じだ。
まあ、親からも、家族からも、クライアントの方からも、友人からも、健康診断をしなさい!という声が日増しに大きくなっていたので、丁度良かった感があるが。
3時間ちょっとかけて、レントゲン、内視鏡をはじめとする、いろいろな検査をした。
胃や喉も問題なしという事でよかった。

診断が終わると、日帰り深圳出張に出発。
来年春の北京進出に際して、パートナー企業との連携を取るべく、その企業のオーナー社長(中国人)と打合せ。

深圳のイミグレで、真面目そうな顔をした入国審査官の男性が、何やら言うので、「え?」と聞き返したら、日本語で、「こんにちは」と言われた。
イミグレの人から日本語で挨拶されたのは初めてだが、それ以外の日本語は話せなさそうだったので、こちらは、「どうも、こんにちは」と言って立ち去る。
ちょっとおもしろかった。

深圳では業務面談後、5人で会食。
その会社の社長は、北京、天津、大連、深圳を飛び回っているので、会うのは2年ぶりだ。
会食は4~5年ぶりではないか。
僕一人だけ日本人だったので、久々の北京語オンリーで疲れたが、旧友と会食という事で、和やかで楽しかった。
さて、明日からまた残務整理の嵐だ。

もう少し時間を

二週間弱の日本出張から帰ってきて、書きたい事(日中関係やら、海外戦略やら)はたくさんあるのですが、いかんせん、超過密スケジュールで、真面目にブログを書く時間がありません。
体制立て直すのに、数日、時間を下さい。
恐縮です。

取ってつけた様で申し訳ないのですが(取って付けてるんですが)、日本で見た可愛いディスプレイ。

マッサージ屋のトイレにあったスナフキン(自分の生き方が、スナフキンに投影される今日この頃・・・)。
そして、ハロウィーンのパンプキン。

ピーナッツファンだった頃、ライナスとシュレーダーが好きだった。
特に、ライナスの、ハロウィーンのかぼちゃ大王のくだりは、(あの当時は、日本でハロウィーンがまだ定着していなかったので)良く分からなかったけど。印象に残ったものだった。
懐かしいね、パンプキン。