中国が好きかと問われれば

僕が最初に中国を訪問したのは、1985年の事。
その時は、これだけ中国に深く関係するとは思ってもいなかった。
合計18年も中国(香港、台湾含む)に住んでいると、「水野さんは中国が好きですか」とか、「水野さんは中国が好きですね」と言われる事がよくある。

いままで、「中国が好きとは言い切れませんが、中国人は好きです」と答えていたが、これは少し不正確だ(好きな人間もいれば、嫌いな人間もいる)。
正確に言えば、「好きな中国人がいる(たくさん)」という感じだろうか。

大学時代の旅行で高熱を発した時に助けてくれた人。半人前どころか、中国語が話させる以外、何もビジネススキルが無かった実務研修生の頃、そんな僕を受け入れ育ててくれた人。
その後、何人もの中国人の先輩、友人から助けてもらい、受け入れてもらったから今の僕がいる。
誰しも、一人で育ってきたわけではない。
その過程の中で、出会い人、受け入れ、育ててくれた人に対する恩を、忘れるべきではない。
自分が与えた恩は忘れてもいいが。

成長の過程で出会った一人一人の顔を忘れ、若しくは、自分の目で見る事もなく一方的な風評だけで、他国の人々に対する感情・好悪を判定すれば、自分を価値を下げてしまう。
人に対する、感謝、敬意、思い出が、自分の価値を高めるモチベーションになるからだ。

そんな事を考えるきっかけになった、蝶理株式会社・井上総代表の文章(今年2月に、蘇州出張をご一緒させて頂いてから、執筆されている上海だよりを送って頂いている)。
ご本人の同意を得て、関連部分を以下ご紹介させて頂きます。

<井上中国総代表(蝶理)・上海便りより抜粋>
一つだけ、自慢、というのも変ですが、まあ多くの人にはできない体験があります。
毛沢東とともに中華人民共和国を建国し、初代の首相を長年務めた周恩来首相からの借金を、40年以上も踏み倒していることです。
畷高を卒業して、大阪万博が終わった次の年、1971年の2月から3月に、香港から中国各地を1カ月間かけて巡りました。
費用は20万円でした。当時のサラリーマンの初任給が4万円前後だったと思いますので、貧乏学生には大きなお金です。畷高の男子バスケットボール部の仲間、3年生の秋までコーチを務めた女子バスケットボール部部員を初め、同窓の皆さんからもカンパをしてもらいました。
それでも足りない部分は、帰国後にアルバイトで稼ぎ、旅行社に少しずつ返済するつもりでした。
当時は中国に入る唯一の窓口であった香港側の境界から英国軍隊に見送られて小さな橋を一人ずつ歩いて渡り、深圳側の中国人民解放軍に迎えられました。
今から42年前の深圳は農村でして、駅の前で水牛が農作業をしていたことを憶えています。
そこから、全て汽車で広州、長沙、南昌、上海、南京、天津と巡り、20日後に北京に着きました。
残り日数を数えるようになった、そんなある日の昼食後、突然旅行社の人から一番きちんとした服を着て下さいとの指示があり、行く先も知らされずマイクロバスに乗りました。
北京市中央部の人民大会堂で下りた時、国会議事堂のような場所の見学だからジャケットくらいは着なさいと言われたのだと納得。
長く暗い廊下の彼方に右腕を前に曲げた人影が見えました。「周恩来の彫像かな?」と軽口を叩きあいながら進むと、それは彫像ではなく、周首相ご本人が握手をして迎え入れてくれました。傍らには九州大学で医学を学び、文学の道を進んだ郭沫若さんらが控えていました。
すぐに記念撮影用の雛壇に上げられ、翌日の『人民日報』に掲載されると聴きました。「なんや、日本から友人が来た、という宣伝写真をとってバイバイか?」と批評する口の悪い同行者もいました。
ところが、奥の応接室に案内されてから数時間に渡り、様々な話題の座談会が続きました。
「日本の男子学生の髪が女子学生より長いけど、中国の若者は流行に後れているのかな?」といった軽い話のあと、「皆さんの旅費はどのようにして工面したのか?」という話題になり「学生はアルバイトを少なくして、教室で学ぶべきだ」「日本から香港往復分以外の中国内の旅費は立て替えましょう」と発言されました。約半額が棚上げになるのですから、口の悪い団員も含めた20名ばかりの全員が「異議なし!」でした。その後、女子学生の団員6名の為に、雛祭りの白酒まで準備された会食が終わったのは夜の9時頃だったと思います。

最近発刊されたキッシンジャーの『ON CHINA』という回顧録によれば、この時期の周首相は体調不良に加えて、文化大革命の混乱期の調整業務、林彪や四人組との確執、一方では米国と水面下の関係改善の責任者として多忙を極めていたとされています。また同書には、面会時には必ずドアの外で出迎え、見送りも欠かさない礼儀正しい姿勢が印象的であったとも書かれています。
正に忙殺されていた周首相が日本の若者が来ると言うので出迎えてくれたわけです。
様々な会話をしている時に、ご自身が旧制第一高等学校などの試験に失敗して傷心の日々を過ごした東京の神田、帰国を決意して遊んだ京都の嵐山などを思い出されていたのかも知れません。その後、借金の返済をする気持ちも機会もないまま、周首相は亡くなりました。
その時の「借り」の意識が40年以上も残って、今日このように話題にするのですから、周さんや中国にとっては帳尻が合っているのかも知れません。