貨物代金決済改革と輸出統計の関係

最近、中国の輸出統計が水膨れしている、という報道がされている。
報道を見てみると、それなりに法律を調べている様に見受けられるが、背景、経緯、何故そのような問題が発生したかという点。
更には、他国の事象との比較が、十分行われていない(状況が十分咀嚼されていない)、若しくは、論調が誘導的だったりする。
公平を期すために、歴史的な経緯を踏まえた上で、解説してみたいと思う。

中国の輸出統計(特に対香港出)に異常が見られた事により、今年5月5日、外貨管理局の一斉調査が行われた(外貨資金流入管理の強化に関する問題の通知、匯発[2013]20号)。
何故、この様な問題が生じたかを理解するためには、2012年8月1日に実施された、貨物代金決済改革(匯発[2012]38号)を理解する必要がある。

この制度改定により、それ以前の、輸出入通関証明を提示しない限り、貨物代金決済が認められないという、非常に厳格な貨物代金決済制度が緩和された。
現在では、輸出代金の受領は、銀行に入金申請書を提示すれば入金が認められるし、輸入代金の支払は、契約書、インボイス、輸入通関証明(何れも原本)の何れか一つで決済が認められる。
ただ、通関と決済一致の原則は不変との方針を外貨管理局は取っているため、通関データと決済データのかい離が著しい場合、外貨管理局の立入調査が実施され、懲罰的対応が取られる(外貨管理ランクの降格による、外貨管理の自由度の剥奪)。
この様に、企業に自主管理を促す制度となっている。

今回の問題は、中国本土の企業が香港企業に対して、カラ輸出を行う事で、資金を香港から中国本土に流入させる。
この資金を中国本土で一定期間運用した上で、反対取引(香港からのカラ輸入)を行い、資金を香港に戻す、というオペレーションが行われている可能性が高いというものだ。
以前の貨物代金決済制度では、通関証明が無い限り、外貨の受払いができなかったが、現在では、決済時の通関単提示が不要なため、この様な決済が実務上は可能である。
相手側の香港は、もとより外貨管理自由で、仮払金形式で資金移動ができる。

では、中国政府が意図的にこの様な事をやらせているか(ねつ造しているか)だが、この様な事はあり得まい。
2008年より、日本のバブル崩壊時のシュミレーションから、中国政府は執拗な資金供給規制を行っている。
輸入ユーザンス形態の資金調達の総量規制、資本金・借入金の換金(外貨⇒人民元)の証憑確認の厳格化等の措置を取り、投機資金の流入を躍起になって規制している。
あまりに厳格なので、企業の健全な活動すらも損なわれると、以前、ブログで中国の外貨政策を憤ったことがあるのだが、この様な厳しい為替政策を取る一方で、カラ取引による統計数字の引き上げを実施するというのは、どう考えてもあり得ない。

今回の外貨管理局の一斉調査の日本企業に対する影響だが、日本企業の場合は、懲罰的な対応で健全な企業運営が阻害される事を危惧するため、昨年の規制緩和後も、通関実績に基づく決済を行っている所が殆どである(優等生的な対応をしている)。
それゆえ、今回の一斉調査でも、問題になった企業は聞いていない。
どこの国の企業かは現段階では特定できないが、今後のリスクを考えず、儲かればよいという事で荒っぽい取引をするところが少なからず有る様で、これが今回の問題を引き起こしている訳だ。

今回カラ取引が行われた(とすれば、その)背景は中国内の高金利で、これは、景気の引き締めに対する、全国共通の手法である。
その様な措置により生じたギャップ(金利・為替差額)を利用して儲けようという動きは、過去にも、色々な国で行われてきた。
日本のバブルの頃、金の所有権売買を名目として、資金を日本・欧州・香港に移動させ、利ザヤを稼ぐ取引(金定期預金取引)を、各企業(商社等)が何兆円も行っていた事がある。
これも、名目上の売買により国際間の資金移動を行い(金の売却と再購入の名目で、日本で集めた資金を国外に移動させ、一定期間経過後に戻す)、ユーロ円と日本内の円の金利差で儲ける様な取引であった。
違いは、日本の外貨管理制度ではそれが合法であり(そのような資金移動を合法的に実現させる方法が有り)、中国の制度では違法、というか、管理が厳格であるため合法的な手法が無く、違法手段に走った企業があるという事だ。
こんな感じで、ギャップが有れば、それを利用して儲けようとするのが金融の世界で、その様な人の欲が、欧米のヘッジファンドによるアジア金融危機や、リーマンショックを引き起こした。

中国の外貨管理は、規制緩和されたとはいえ、日本に比べれば格段に厳しい。
為替の自由化は先進国化の過程で当然行われるものであり、それは総論で言えば必要と考えているが、少し緩和が行われると、こういう問題が生じる。
規制緩和はかくも難しく、それは、人間の欲との戦いであると言える。