経営コンサルのために鳥取へ

1ヶ月近く前の話になるけれど、大学の同級生の依頼で、鳥取に経営コンサルティングに行った。
結局、この出張から帰ってから、ずっと実家にこもっている訳なので、動き回れた当座最後の機会であったわけである。

鳥取は、実質的に生まれて初めての訪問で、全く土地勘が無い(物心つかない幼少期に行った事が有るらしいのだが)。今回は、友人が、とある企業の専務に抜擢されたので、経営分析をお願いできないかと依頼された訳ながら、その会社は中国とは関係ないし、業種も自分の専門とは違っている。普通だったら受けないところだが、任地に戻れず、じっと家にこもる生活にも飽き飽きしたので、好奇心もあり、出向く事にした。

鳥取砂丘コナン空港にはJALが飛んでいないので、電車でゆっくり行く事にする。新横浜から新幹線で2時間。スーパーはくとで3.5時間。それに、家から新横浜までの時間や、京都駅での待ち時間が有るので、なんだかんだで7.5時間かけて鳥取着。飛行機で上海に行った方が、よっぽど近い。

朝食を食べずに家を出たので、まずは、「朝のおにぎり」と銘打った弁当を買うが、朝のという割にはすごい分量だ。そして、横浜の人間としては、乗り物に乗るとシウマイを食べたくなるのは身に着いた性(さが)だ。


京都駅で昼食用の弁当を選ぶ。
850円程度の「のり弁」に惹かれたが(フライト焼き鮭も入っている)、京都らしいものを食わねばと思い直し、1,100円のきつねご飯弁当にする。まさに、思った通りの味だったが、原価はのり弁以下ではないか。ちょっと解せぬ気持にはなる。
こんな感じで鳥取到着し(さすがにくたびれた)、友人と合流すると、蕎麦屋⇒日本料理屋に。
こんな日々(過食傾向の日々)が続いたので、帰ってすぐダイエット開始。むべなるかな。

SARSの時と比較して

横浜の実家で在宅勤務を続けているが、仕事は、ここ一週間、徐々に忙しくなってきた。やはり、中国が正常化してきているので、それに付随して打ち合わせ依頼(電話会議など)が増えてきたという事だ。
やはり、現地(中国本土)への思いたち難し、というところはあるが、仕事が戻ってきているのは良い事だ。

この状況で思い出すのは、2003年のSARSのことだ。あの当時、日本では感染者が出なかったので、日本にとっては対岸の火事だったと思うが、自分は渦中の香港にいたので、個人的な恐怖は、今より強かった。700万人程度の香港で、2,000人弱が感染。300人程度が死亡。更に、初めての経験で、最初は出歩くのも怖かった。
とはいえ、それ以上に仕事が進まない恐怖が強かった。2002年は人生最高の年(少なくとも仕事上は)で、初めての本を出し、それが書店で大好評となり、コンサルティングを開始すればトントン拍子に契約が取れ、NHKの出演も決まった。有頂天になっていた頃に、SARSですべてが止まってしまった。焦ったのも致し方ない。ただ、収束すれば、全ては元に戻ったのだが。

いま焦りが無いのは、仕事・会社が安定しているのと、年齢(若くない)が理由か。
とはいえ、安定したと言えば聞こえはいいが(それなりに良い事でもあるが)、会社がどんどん伸びている、というわくわく感を、周りの人に与えていないという事で、これは反省すべきことだ。そんなことをふと考え、反省し、これから何をするかを考える日々。
これがきっかけになって、新しい一歩に繋がるとよいのだが。

雑感

思いもよらず、3ヶ月弱の日本滞在。更に、数か月続きそうな勢いだが、ともあれ、2020年第一四半期は黒字を維持できそう。勿論、大喜びという数字ではないが、この状況下では健闘した方だろう。そして、電話会議ベースでの打ち合わせは増えている。やはり、現地が通常稼働しているので、日本と中国で電話、ビデオを通じての打ち合わせで、仕事が進められるのは大きい。

そして、実家に、これほど長く居続けるというのは思いもしなかった事態で、これはこれで一つの副産物か。
大学の時に見た夢で、記憶に残っているものがある。20代の自分が失踪して、数十年行方不明になるというもので、ひょっこり実家に帰り、仏壇に手を合わせていると、そこに入ってきて驚く母親に、「ゲームは終わったよ」という。それだけの夢。

その後、海外主体の仕事となって(まあ、電話もあるし、しょっちゅう日本に帰れるのだが)、海外滞在累計25年になった事を考えると、不思議な余韻を、いまだに感じる。まあ、そういった海外生活が、少しの間休憩になったという感じか。
まだ、ゲームは終わっていないが。

オフィス付近の桜と最近の雑感

オフィスでTV会議をする必要が有ったので、久々に出社したら(自分は横浜の実家で在宅勤務中。他の社員も同様に在宅勤務中)、福岡銀行の会報が届いていた。2020年1月20日の福岡での講演会の紹介が出ているため。思えば、このための出張以来、中国に戻れていない。その当時は、こんな事態になるとは思わなかった。まさに一寸先は闇だ。

早く中国に戻りたいという気持ちはあるが、各地(上海、広州、香港など)は、通常通り機能しており、業務に支障は生じていない。また、第一四半期は、おそらく連結黒字は維持できそうだ。例年より利益が伸びないのは致し方ないが、この環境を踏まえれば健闘と言えるであろう。過去20年弱、各子会社に権限を移動し、人材を教育し、組織が自立できるように考えて運営してきたつもりだ。その結果が出てきているのを感じられるのは嬉しい。ただ、実務者(コンサルタント)の立場としては、自分が実家に引きこもっていても、業務がつつがなく回っているのは、寂しいような、妙な感じはするのだが・・・

オフィス付近の桜。
やはり、日本人だから、という事であろうが、桜には過去の色々な思い出がある。ただ、一番印象深いのは、高校3年生になりたての時、これから受験しなくてはならないんだと、悲しい思いで眺めた桜。今でも桜を見ると、その時の気分を思い出す。
そして、社会人になると、我ながら古いタイプのモーレツ社員で、のんびり桜を眺める時間は無くなった。1997年からは、海外に出てしまったのでなおさらだ。
こんな風に、(長い期間)のんびりと桜を眺めるのは、本当に久しぶりだ。

大学同級生の壮行会と快気祝い

これも1ヶ月ほど前のこと。
昨年末から大学の同窓生が大病を患って入院していたのが、無事退院したので快気祝い。また、他の同級生がドバイ駐在が決まったので、壮行会をする事になった。
因みに、ドバイ行きが決まった同級生は、ブログのこの回でキャップをかぶっている人物
大学三年生の時に一緒に中国に旅行し、途中で分かれた。彼と会うのは、33年振りだが、その間に、ベトナムに8年駐在し、今度はドバイ駐在が決まったとの事。

都庁のレストランで会食。
という事で、頑張れよ!と送り出したら、翌日、ドバイが日本人の入国を制限したという事で、出発できず、ぎゃふんという落ちになった。

福岡から渋谷、そして1.5か月後にダイエット

これも、今年の2月中旬の事。
日本でこういう生活が続いたために、体重が4.5Kg増えて、只今ダイエット中(始めて5日目。1.3Kg減)ですが・・・
これは福岡空港のラーメン滑走路という場所(ラーメン店が集まっている、ラーメン横丁のような場所)で食べたラーメン。
チャーシューはまずまずだったけれども、ラーメン自体は可もなく不可もなく。

羽田に到着すると、空港で2時間ほど仕事。到着時はにラウンジが使えないのは不便だ。17時半まで空港の喫茶で仕事をすると、渋谷まで移動。道玄坂で、報道の方&元クライアント様と会食。
道玄坂での会食は久しぶり。道玄坂で覚えているのは、新入社員時代(1987年)、初めて入った寿司屋(今はさすがにもうない)でのこと。寿司カウンター(寿司を置く板)に、途中から小さなゴキブリが走り出したが、周りのおじさんたちは全く騒がず。みんな、「お友達が来た」と喜んでいた。日本も30年前は、今とは衛生観念が違っていたんだなあとつくづく思う。
現在は、当然そういう事はなく、小さな店でも衛生的だ。

酒飲み3人(特に、日本酒好き)というのを前提に、幹事役の方が選んでくれた店は、お任せ3,500円というリーゾナブルな店。日本酒は、女性好みの日本酒が主流(微発砲のもの、ワイングラスで飲むのに適した日本酒など)なのが、ちょっと僕には向かないが、全体的に良い店であった。

最後はチーズ(主食は無い)。
料理は3,500円でも、酒飲みぞろいのため、一人の割り勘は、ほぼ1万円。

台湾研修生同窓会(1月の出来事)

しばらくブログの更新が途絶えていますが、元気です。横浜の実家にこもって仕事をしている状況で、変化が無い(書く事が無い)ので更新がないという次第。
ただ、思えば16年続いているブログでもあり、あまり更新が無いのもなんだな思い、過去の出来事(今年1~3月)や雑感を、これからつづっていこうと思った次第です。
さて、これはもう2か月前の話になってしまい、アップの機会を逸したなと思っていたものですが・・・

2020年1月末、元台湾研修生の会が有り、2回目の参加。これは、1988~1989年に企業派遣で台湾語学留学していた人たちの同窓会。自分は、他の研修生とは殆ど接触が無かったので、当然の様に関連の方々とも交流が切れていたが、参加する様になったのは、僕がアドヴァイザーをしている香港貿易発展局の伊東さん(日本所長)が幹事をしてくれているため。あとは、SNSで忘れかけていた方々との交流が徐々に復活したためで、この点、SNSの発達は有難い。

なぜ当時、他の研修生と交流しなかったかというと、一番は、日本人と交流すると、中国語が上達しないのではないかという危惧。やはり、入社2年目で語学研修というのは、他の同期がどんどん仕事を覚えて、組織で居場所をつかんでいる状況下、取り残されたような気になるものだ。そのため、せめて語学は、誰よりも上手くなってやるという意気込みで勉強していた。あとは、自分が最年少だったので、いつも気を遣うのが疲れるという理由。それに、ゴルフが好きではないという理由も加わるのだが。

会場は、半蔵門の「台湾食堂」という店。幹事の伊東さんが気を使って、毎回、台湾料理にしてくれるようだ。
リーゾナブルで良い店。紹興酒が進んだ。

そして最後の記念写真。20代で留学していた人間たちが、30年以上の経過を経て年を取った。20代の頃は懐かしく、ただ、(自分が会社内でポジションをつかめるのだろうか。今後は、どうなるのだろうかという)不安を何時も抱えていた切ない思い出でもある。昔に戻りたいとは思わないが、それでもいろいろ懐かしい。