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ブランクは恐ろしい

現在、1月7日のJETRO主催講演会(東莞)のレジュメ作成中。
JETROと東莞市の来料加工廠外資企業転換に関する定期交流会に引き続き、講演を行うもの。
定期交流会で出た話題(東莞市政府との質疑応答)の紹介と解説も、即興(?)で行う予定。

ただ、たかが2日日間仕事を休んだだけなのに、レジュメ作成が進まない。
いつもはすらすら出てくる文章が書けない、仕事をするのが辛い(苦しいという感じ)。

2日間の休息で、若干、精神的には楽になったが、その一方、てき面にこんな反動があるものだ。
怖い怖い。

ともあれ、明日(4日)レジュメ提出なので、しばしもがき苦しむ予定。

活動開始

1月1日・2日は、努力して(?)怠ける事にした。
一人で部屋にいる時、ついつい仕事をしたり、執筆してしまう。
長い間、完全に仕事から意識を外す事がなかったので、緊張が徐々に溜まっている様な気がする。

そんな訳で、2日間は、PCも開けない、走りもしない、部屋から一歩も出ない、仕事関係の本も読まない、という事で、ストレスを感じる事を一切しない事にした。
半日寝て、推理小説を読んで、DVDを見る。
そんな感じで過ごした。

これだけでも随分違う。
2日間は、仕事のE-mailが一本も来なかったのもよかった。

今日からぼちぼち活動開始だ。

石の上にも三年だ

「今の仕事にやりがいが無い」とか、「こんな事をする為に会社に入ったんじゃない」というセリフを吐く若者は多いだろうが、それを嘆く年輩の人自身が、若い頃、そんなセリフを吐いた筈だ。
僕も言った。

気分は炎熱商人か不毛地帯、という感じで入社すると(当時、不毛地帯は読んでいなかったが)、待っていたのは、船積書類の間違い探しで、来る日も来る日も、膨大な書類のスペルミスのチェックやホチキス止めだ。
おまけに、当時の上司は癖が有り(もう転職したが)、失敗すると、坊主頭にさせられた。

経理に配属されると、役員会資料や部長説明資料作りで、売上や利益の一覧表を作って、増減説明やレイアウト、四捨五入にやっきになった。
隣の課の表は太線なのに、こっちが二重線だと、「なぜ合わせない!」と怒鳴られ、○○現地法人の利益が伸びたのは何故と聞かれ、食料部のジュースだと答えると、「何ジュースだ?」と質問され、答えられなくて青くなったりした。

その時、同僚とこぼした愚痴が、「会社の中で、誰かがやらなければいけない仕事なのは分かるが、何で自分が!?」というもので、こんな事やっていても、何も将来の知識が学べないという焦りだった。

ただ、振り返ってみると、そうした一見意味のない仕事の中で、仕事の進め方、意思疎通の仕方、組織の考えが体得できた。
また、仕事の中で興味を持って、本業の会計・税務は勿論の事、経済学、財務分析等の本を読んで、会社の中に溢れているサンプルで試して学ぶ事もできた。

こんな感じで、石の上にも三年というか、最低十年くらい我慢して続けることで、知らないうちに会得する事がある筈だ。
これは、スポーツ選手が、腕立て伏せや腹筋を続ける様なもの。

そんな訳で、今の仕事が面白くないと言って、転職を続けると、結局、何も身に付けられない可能性がある。
中国で人材採用をしていると、1年毎に転職を繰り返し、その豊富な職種を売りにしている若者を見かけるが、やはり、我慢から学ぶ事も必要だと思う。
古めかしい発言かもしれないが、人間我慢も必要だ。

博多道場でもつ鍋を食べる

辛子レンコンと揚げだし豆腐

歓送迎会があったので、博多道場を予約する。
最近、博多道場と吉によく行く。

まずは、辛子レンコンと揚げだし豆腐を頼む。
辛子レンコンと言うと、食中毒で死者が出たイメージが強いのだけど、7歳年下の人は知らなかった。
インターネット検索してみると、1980年代にそういう事があった、というだけの様で、現在特に問題はないようだ。
認識を新たにすると共に、ジェネレーションギャップを感じる。

胡椒手羽先と揚げだし豆腐

胡椒味の手羽先と餃子。
胡椒味の手羽先は、「いくら胡椒味といってもかけすぎだろう!」と見た時は思ったが、食べですと病みつきになる味。
餃子は手堅い美味しさ。

もつ鍋

博多道場と吉が同じビルにあるので、どちらのもつ鍋が美味しい、という話が香港居住の日本人の間でよく語られるのであるが、先日の福岡出身の方は、「吉の味が本物です」と言っていた。
香港人の人は、「博多道場が美味しい」と言っていた。
因みに僕は、どちらも美味しく食べた。
最後に、五島うどんを食べてしめ。

久保田千寿を飲み、他の料理もいくつか食べたが、3人で HK$ 1500とお得であった。

敬語やら一般常識やら

敬語もそうだが、一般常識というのはやっかいだ。
知らなければ気にならない事が(当たり前だが)、知った途端気になってしかたがなかったりする。

かなり昔の事だが、入社数日目に社内電話を取り、課の担当者(僕の先輩。仮称山田さん)が在席か問われた時、「山田さんは、もうすぐ戻ってこられると思います」と言ったら、「馬鹿野郎。身内に敬語を使うな!山田はすぐ戻って参りますだろう!」と怒鳴られた。
そう言えば教科書で習ったな、と思ったが、慣れない敬語で意識が回らなかった。

若いうちにそんな事があると、もう同じ間違いはしなくなるが、30才を越えると、誰も注意してくれなくなる。
実際、30~40才を越えても身内に敬語を使っている人は、正しい用法だと確信している訳だろうが、聞いている方が、「この人は用法を知らないだけだな」、と聞き流してくれればよいが、往々にして、相手はいらいらしている。
「こっちを馬鹿にしているのか」と思っていたりすると、今後の関係に影響がある。
こんな感じで、敬語や一般常識というのは怖い。

ただ、世にあふれる一般常識を、全て習得しているというのはあり得ないので、誰しも(僕自身も)、色々と勘違いをしている事がある筈だ。
そう考えると怖い。
一般常識の本を買おうかと考えたりもするのだが、それを読んで、自分の間違いを、今さらながらに思い知るのは怖い。

若いうちに、叱ってくれる人に感謝せねばならない。
因みに、僕を一喝してくれた人は、嫌味がなく若手を叱り飛ばせる良い先輩だった。

改めて考えると大感謝

1年半ほど前、東京で講演会を開いたら、その時配布した、主催者のアンケート用紙に、一ヶ所タイプミスがあったようだ。
講演会後に回収したら、百数十人の参加者の中で、3名だけ、(ミスタイプした)質問を手書き修正した上で、回答を書いている方がいた。
その3名が、全員丸紅の社員だったので、主催者の方が面白がっていた。
何しろ、何十社という企業の中で、丸紅社員だけだ。

丸紅というと、伊藤忠に続いて大酒のみという、世間的なイメージがあろうが(これはこれで正しいが)、こういう実務面の細かさもある。
これは、良し悪しの問題ではなく、傾向の問題だが。
面白いものだ。

ともあれ、僕は、コンサルティングという、ノウハウを売り物にするビジネスをしている訳だが、その基礎、つまり、考え方、仕事の進め方、意思疎通の仕方などは、(自分で学んだ部分もあるのだが)基本的には丸紅という会社で身に付けた。
大企業で仕事をする事と、中小企業で仕事をする事、はたまた自分で会社を興して仕事をする事の良し悪しは、色々あって一概には言えない。
ただ、少なくとも大企業の場合、組織に歴史的に蓄積されたノウハウがあるので、それが学べる事、電話の取り方、報告書の書き方、挨拶の仕方から始まるビジネスマナーを学べる事(叩き込まれる、と言った方がよい)等が良い事だ。

あと、コンサルティングの場合に圧倒的に良かったのは、場数を踏める事。
医者でも弁護士でも、経験がある人間(それで、且つ評価を得ている人間)が信頼される。
ただ、信頼される様になるまでは、数々の失敗が有った事であろう。
よって、誰しも新米に担当されたくないものである。
この様な場数が、組織の中で踏め、且つ、失敗しそうになると、組織(上司・同僚)が牽制してくれる。
そんな訳で、大きな失敗に到る事なく、たくさんの場数が踏めたこと(影響の無い失敗をさせてくれた事、と言った方がよいか)が、いまの肥やしになっている。

考えてみれば、22年間、丸紅という会社が、ノウハウを身に付けさせてくれ、いろんな経験もさせてくれ、語学も学ばせてくれ、比較的自由に行動させてくれ、少なからぬお金(給料)までくれたわけだ。
更に、今では、顧客になってくれるだけでなく、新規の顧客・提携先を紹介してくれたり、はたまた行く先々で、ホテルを取ってくれたり、飲み相手にもなってくれる。

深く考えた事は無かったが、改めて考えると、僕自身は、損得勘定において、かなりの得をしている事になる。
そう考えると大感謝だなあ、と今更ながらに思った次第。

琴乃富士でちゃんこ鍋

そっぷちゃんこ鍋

ちょっと前の話であるが、飯田橋でちゃんこ鍋を食べた。
一緒に食事をした元同僚の桑田君は、ラグビー選手で入社時に100Kあった巨漢で、小学校時代に春日野部屋にスカウトされた事もあったようだ。
新入社員の秋に、千葉の鹿野山で新入社員集合研修を開いた時、グループ対抗宴会芸をやった事があり、桑田君のグループは、逆人間ピラミッドというのをやっていた。
これは、体が小さく軽量の人間が一番下に並び、一段上に行く毎に大きい人間になり、最後に(5段くらいあった)、桑田君が、上に飛び乗って、全員を押しつぶすという力技の芸で、如何にも商社的、体育会系であるが、すさまじく印象に残っている。

琴乃富士は、よく宿泊した飯田橋アグネスホテルの裏。
インターネットで見つけた店。
こじんまりした店だが満席だったので、僕でも窮屈だったが、桑田君は座るのがかなり苦しそうであった。
いつもの様にブラックベリーで写真を撮っていたのだが、途中で調子が悪くなり、写真が格納できなくなってしまった。
よって、付き出し、あわびの刺身、自家製カラスミ、鳥もつ煮の写真がアップできず。
使い勝手には大変満足しているブラックベリーだが、壊れやすいのが難点だ。

全般的に、当たり前の物が美味しい店だ。
付きだしの豆腐とか、鳥もつとか、そういった普通の素材が、たいそうあっさりした味付けにも拘らず、重みがある。
親方は、前頭5枚目まで上がった人の様であるが、確かに、相撲部屋の技が感じられる味。

そんな訳で、同席者に取ってもらった「そっぷちゃんこ(塩味)」の写真。
最後のラーメンが、あっさりした塩ラーメンの様で美味しく食べすぎた。


これがオーナー琴乃富士親方、

塞翁が馬

前回のブログでも書いたのだが、僕は、ここ一番という時の運が極めて良い。
人生の選択の運、人と巡り合う運というのは、我ながら感心するくらいだ。
一方、細かい運(くじ運とか、一番遅い行列に並んでしまうとか)は、非常に悪い。
という事で、日頃、細かい運をすり減らして、大きい運を拾っている気がする。

そんな事を意識しだしたのは、10年くらい前で、それ以来、運気を無意識のうちに気にしている。
その為、小さな悪い事があると(物を無くすとか、お釣りが少ないとか)、「おっ!これは良い事があるぞ」と考える。

以前、マカオのカジノに出張者を連れて行った時、彼が大小で勝ち続けていた。
HK$ 200が、30分くらいでHK$ 8000程度になっていたのではないか。
彼と一緒のところに賭ければ、必ずもうかりそうな気がしたのだが、「こんなところで運を使ってはいかん」という恐怖の方が強くて、HK$1も賭けなかった。

まあ、自己暗示の方が強いかもしれないが、塞翁が馬の考え方を、自然とするようになってしまったという事であろうか。


人の運命というものは(振り返ってみると)

運、縁というのは不思議なものである。
僕が中国に関係しているのは、大学浪人した時、代ゼミの書籍部で「多久の漢文王国」という本を買って読んだからだ。
この一冊で、すっかり中国に興味を持って、大学に入った途端、中国の勉強を始めたが、浪人していなかったら、若しくは、この本を読んでいなかったら、中国に興味を持つ事はなかったろう。
そもそも、現役時代の受験は、二つの学部で、1問差で不合格となった(補欠)。
一つの学部では、失敗した1問も記憶に残っている(狩野正信と狩野元信を間違えた)。
最初に書いた回答を、消して書きなおしたら間違ってしまったのだ。
あの時消さなかったら、今頃僕はどこにいるのだろう。
少なくとも、第二外国語はドイツ語を申請していたので、中国にはいなかろう。
僕の人生を変えた一問、そして一冊。

また、会社に入り、中国実務研修から帰る時に経理部に配属されたが、これも偶然だ。
僕が知っている限りでも、営業部3つと、研修前の所属部(外国為替部)から引きが有ったので、その何れかに行くのだろうと思っていたら、思いもしない経理部だった。
あとで分かった事であるが、僕の配属が決まる少し前、北京事務所の経理担当駐在員が、テニスでアキレス腱を切って、急遽帰任になってしまった。
その後任探しが難航した事もあり、中国総代表から中国対策を立てろと厳命された経理部が、僕を獲得した訳だ。
「当時の経理担当が、テニスをしなかったら、僕は営業部に出て、コンサルティングを始める事もなかったわけだ」。そう考えると不思議な気分だ。
そんな事を考えていたら、数年前に、香港で酒を飲んでいた時、1990年代に北京事務所に駐在していた人間が、「冬の日曜日にAさん(当時の経理駐在員)とテニスをして、いつもだったら強い球を打つんだけど、ふとボレーを上げたら、Aさんがスマッシュを失敗してアキレス腱切っちゃった。そして、赴任半年で帰国になった」、と言っていた。
それを聞いて驚いた。
この人が、ロブを上げていなければ、今僕は違う場所にいる訳だ。


ただ、経理に決まった当時は、不満で仕方なかったが、今振り返ると、全ての選択肢の中で、経理に帰任したのが一番良い道だった。
僕を引いてくれた営業部は、全て部が無くなってしまっているし。

そして、1997年の香港駐在も、(駐在後に知ったのだが)ニューヨーク駐在がひっくり返って香港に変わったものだ。更に、丸紅を退職したのも、かなりの偶然の産物だ。

今、振り返ると、大学も結果として浪人した方が良い結果となっているし、配属、駐在もまたしかり。
あの時、狩野正信を消していなかったら(狩野親子、紛らわしい名前で有難う)、当時のテニス相手が、ロブではなくパスを打っていたら、僕が本を書く事も無かったし、水野コンサルタンシーも無かった訳だ。

そう考えると、強い運命の手に、引き寄せられている様な気がする。
そして、一番好ましい選択に繋がっている。

ただ、浪人が決まった時、配属が決まった時は、泣いて悔しがっていた。
あれが、実は良いカードだったと分かるのは、努力して、そして何年も経ってからなのだ。
人生というのは難しく、そして面白い。

中国と国際税務

1988年に中国語学研修生に出てから、中国の会計・税務、ビジネス制度に何らかの形で関わっている。
中国居住年数は、既に16年になっているし、22年強、中国の制度を見てきた事になる。
その中で、1990年~97年の本社勤務の時は、主に欧米の会計・税務を担当していた。

米国担当の時は、P/E、移転価格、過少資本税制、非課税組織変更等が主要業務だったが、これが今の中国で非常に役立っている。
P/E、移転価格税制等は、米国担当の時の感覚そのままで対応できるし、非課税組織変更というのは、制度は違うが概念はすんなりと受け入れる事ができる。

1990年、僕が中国研修から帰って経理に配属された時に、当時の課長から、「水野が中国をやりたいのは分かるが、会計・税務の先進国は米国だから、まあ、文句を言わずにやってみろ」と言われ、担当となった。
自分としては、回り道の様な気がしたが、その時の経験が、今まさに中国で役立っている。
今中国で展開されているP/E議論は、まさに、米国担当の時に経験した内容そのままだ。
1990年代は、「中国でP/E議論なんてする事はないだろう」と考えていたが、分からないものである。
国際税務に関して言えば、完全に中国は米国が来た道を歩んでいる様に思える。

中国を長い間見ているから分かる事があれば、こうして、他の国の実務を経験したからこそ分かる事もある。
これが中国の変化であろう。
これは、当時の課長の先見の明。
感謝せねばならない。