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浦東第二空港で生ビールとパスタ

今週は、広州1泊・上海3泊・週末が香港。
来週は、北京・上海・南京・香港と移動。
ここ暫くは、体を酷使する生活が続く。
となると、忙中閑を求めてレストランで飛行機の待ち時間はのんびり。

浦東第2空港使用開始に伴って、ドラゴンエアのカウンターが第2空港に変更された。
使用は今回が初めて。

大きくて綺麗。
まだ人も少ないし。

レストランコーナーに上がって、何があるか見回してみる。
シャロンは無いが(あるかもしれないけど見当たらなかった)、味千がある。
香港、浦東空港両方で味千拉麺が食べられるな。

浦東の空港のほうが座席が綺麗だ。

生ビールとカルボナーラを注文

今回はイタリアンに決定。
今日は昼食を食べる時間が無かったので、昼食兼夕食だ。

生ビールはタイガーとハイネケンの2種類なので、ハイネケンを注文。
料理はカルボナーラ。

味はなかなか(飛行場のレストラン、という基準で考えれば大変美味しい)。

ディレイがままある浦東空港の待ち時間も、これで苦にならなくなってくるか。
生ビールとパスタ1品で150元。
料金も香港並みではあるが・・・

ただ、究極的に疲れてぐったり。

レストラン、ゲートでの待ち時間に、意識を失いそうな疲れだった。
飛行機に乗ると、狭いエコノミークラスでも完全熟睡。

暫くは辛いぞ・・・

でも、気分は爽快なので大丈夫。
体の酷使にも耐えられるだろう。

悲鳴を上げています

数日前に、ブログも本調子に戻ります!と力強く書いたら、ここ数日、忙しさのあまり悲鳴を上げていて、またもや頻度が落ちかけてしまいました。

すみません。

が、仕事がたくさん舞い込んでいる、という良い忙しさですので、ご安心下さい。

今日も1日頑張ります!

言い訳の様なわざとらしいコメントですみません・・・

広州に移動(功夫之王を見る)

昨日(日曜日)は、元気なついでに、キックボクシングの練習をして、髪を切って、連載原稿を3本(合計4000字)。
2日合計で、連載原稿7本(1万字)書いて、運動もしたんだから本調子だ。
復活だ。
が、僕は調子が良くなると、狂ったように飛ばしてしまうので、またへばってしまわないように注意しなくては。

そんな感じで、元気に始まった今日。
面談を香港で1件こなして、デスクワークをして、広州に移動。
広州で面談1時間ちょっとして、仕事終了。

ただ、週末から飛ばしすぎたので、いきなり疲れてしまったけれど、やる気がみなぎっているのでよしとしよう。


仕事を終えて、夜は、ジャッキーチェンとジェットリーが出ている、功夫之王を見る。
香港で広告を見ていて、見たいと思っていた映画なので、広州で見られたのはラッキー。

チケットは一人80元(1,300円位)なので結構高い。
しかし、中国で最新作の映画が当たり前の様に見られるのは、昔の事を知っている身としては驚くばかり。
僕の記憶の中では、最新作の映画(特に、洋画)が、オンタイムに近い形で(中国で)見られるようになったのは、タイタニックが最初だった気がする(違ってたらごめんなさい)。
昆明に出張に行ったら、僕が見たばかりのタイタニックを、「私も見ました」と昆明のスタッフの人に言われて驚いたのが記憶に新しい。

10数年前までは、金銭的な理由(興行収益との兼ね合い)、更には、あまり豊かな外国を見せないという思惑ありで、何十年も前の古めかしい映画やTVドラマしか放映していなかったものだ。
中国が豊かになり、余裕ができたという事であろう。

映画は面白かった。
特撮効果もあるものの、ジャッキーチェンの酔拳や、ジェットリーのカンフーが大変な迫力。
この迫力は、DVDだと楽しめない。

ついでに、映画館の座席は広くてゆったりしており、且つ、ガラガラ(夜10時に始まる会だった事もあり、僕を含めて10人程度しかいなかった)。
のんびり映画鑑賞ができた。

東京DOLLを読んで共感を感じる

精神的に吹っ切れて、調子が戻ってきたので、昨日は連載原稿4本(合計6000字)とブログを書いて、石田衣良の「東京DOLL」を読んだ。

石田衣良は、「1ポンドの悲しみ」に共感を覚えて、昨年よく読んだ。
今回の「東京DOLL」も面白かった。

好きな事を始めて、それなりに成功して、そこに大企業の思惑が入り込んで、仲間で始めた会社のまとまりが崩れ、人が離れ、悲しみにくれ・・・
そしてどうするか、という話。

好きなものを、いい仲間と自由にやり続けていくのは難しい。
それが社会の仕組みなのかもしれないが、折れない主人公が良かった。
また、その実、弱さと悩みが一杯な姿にも共感。

ちょっと非現実的な設定ながら、なにやら納得してしまったストーリーだった。

第二外国語とゼミの思い出

5月2日に、中国関係に足を踏み入れる過程を書いた。
まあ、偶然に導かれてすんなりと来たような感じだが、それでも、幾つかのピンチがあった。

一つは大学の第二外国語。
中国語は人気があったので(単語が日本語に似ていて簡単)、抽選があったようだ。
中国語に落ちるとロシア語に自動的に回されることになっていたらしい。
⇒ 社会主義という事以外は大違いだ。
  ひどいぞ早稲田。
まあ、選ばれてよかったが。

あとはゼミ。
なんせ、成績が関係ない(当時、早稲田の政治経済は、6割程度の学生しかゼミに入れなかった。よって、ゼミに入るにも優の数が問題になってくるケースが多い)ので、なんだかんだで希望者は多いゼミだった。

定員の20名を超える学生が集まったので、先生が、「性格的に学生を落とすのは好きではないので、ゼミの実態言っておくけど、就職には全く使えないゼミだよ。コネゼロだし。それでも希望する人は、何時間後にもう一度ここにきて申し込んでくれ」と発言。
これで、来なくなってしまった人間が結構居たので、これで無事ゼミに入れた訳である。

なんとも気が抜ける顛末であった。
まあ、ゼミの発表は2年で1回だけ。
卒論20枚。
超楽勝ゼミであったのは確かである。

表彰式でのスピーチ

全然話が変わるけど、外高橋に表彰された時、スピーチしている際の写真を入手した。
ちょっとぼけてるけど・・・

変わったものだ米事情

先日の日経新聞に、「コメの対中輸出前面解禁へ」という記事が載っていた。
変わったものだコメ事情。

1989年に福建省の福州に実務研修に出かけた時、初日にしたのはコメの確保だった。
当時の自由市場というところ(比較的良いものが手に入った)で、コメを買ってきたのだが、大変まずい。
ざるを振って、小石出して、何度もといで炊くのだが、透明ではない白さでばさばさ。
炊飯器から出して5分経つと固まってしまう。

当時オフィスが入っていた温泉大飯店の従業員食堂では、ご飯はブロック状になっていて、トングでつまんで、皿の上に乗せてくれた。
ご飯はよそう物ではなくて、つまむ(はさむ)もの。
そのぐらい水分が無くて、カチカチであった。

最初は、「コメなら何でも食べられますよ」と言っていた僕であるが、当時の福州のコメを食べてぎゃふんといった。
まずいコメってのはあるものだ。
思い知ったあの瞬間。
出張者も、皆同じ反応であった。

コメはあるのに、コメに飢えていた当時。


取引先の人が、香港出張に行く時、豪州米を5Kg買ってきてくれた事があるが嬉しかった。
廈門の免税品店で、日本種米、タイ米が買える事が分かったら、廈門出張が嬉しくて仕方が無くなった。
その後知れば、香港の廉価スーパーで売っているコメと同じ種類であるが、これらが手に入ったら、心からほっとしたものだ。

当時はまさに、コメにまつわる思い出が一杯だった。

それから約20年。
中国のコメの品質自体も上がったし、日本からの輸入米も手に入る。

まさに別世界だなぁ。

答えは出た(導かれてきた道)

2月中旬から、深い悩みの連続であったが、遂に自分の中では答えが出た。
完全に吹っ切れた。
あとは、また走り出そう。

(最近こののりが多いけど)まだ、何のことかは書けないけれど、滞りがちだったブログの更新も元に戻るであろう。

ここ暫く、遅れ気味で失礼しました。

最近、色々な方と話している中で、「中国で仕事をするきっかけはなんですか?」と聞かれる事が多かった。
意図的に、初めての人とお会いして、会話をさせて頂く機会を作ったのが理由であるが。

僕が中国に興味を持ったのは、大学浪人中に、ゼミの漢文の先生が書いた漢文こぼれ話の本を読んだのがきっかけ。
浪人中に通っていたのは大船の代ゼミ。
夏期講習期間でちょっと余裕があったので、「多久の漢文王国」という本を買って、勉強が終わってから読んでみた。
これにすっかりはまって、一晩で読み終えた。
それまで、「堅苦しい」と思っていた中国が、随分、自由でしたたか、そしてたくましく感じて、急に興味が沸いてきたのである。

それで、大学の第二外国語は中国語を取る事にしたのである(現役で受かっていたら、ドイツ語にしていた)。
中国語を教えてくれたのは、漢字研究の大家であった藤堂明保先生。
人柄にすっかり惹かれて、2年生で藤堂先生の一般教養ゼミ(漢字研究)に入った。
ただ、先生は突然体調を崩され入院。
冬にやっと退院されて、ゼミ生一同で食事(中華料理)をご馳走になった。
その1~2ヶ月後、ラジオを聴いていたら、先生が急逝されたとの報道があり、ショックを受けた。

専門ゼミの選定は、その翌月(か翌々月)だったのであるが、「一般教養ゼミで、ろくに勉強しなかったのが悔やまれる。せめて専門ゼミも中国をやろう」と心に決め、中国関係のゼミに入った。


あとは、大学3年の時にはじめての中国旅行。
あの当時の不便な中国を、言葉もできず、1ヶ月ぶらついたので、あまりの辛さにしばしは中国に行きたいという気持はなくなった。
1ヶ月のありあまる時間。
公園、ホテルのベッド、電車の中で、ボーっとしながらミュージックテープを聞き(バービーボーイズ、浜田麻里が主流だった。時代を感じる)、「早く帰りたいよぉ」と思ったものだ・

ただ、就職活動をする時に、ふと、その時の旅行を思い出し、中国関係の仕事ができる会社(商社)に就職した。

ところが、最初に配属されたのは財務部。
当時の財務部は、中国駐在はほぼ期待できない環境にあったが、ひょんな事から中国研修に出る事ができた。

帰る時、元いた財務に帰る確立が高かったが、当時の経理担当北京駐在員(面識は無いけど)が、軽いアクシデント(テニス中にアキレス腱を切った)で帰国した事をきっかけに、中国担当の経理マンの育成という目的で、経理配属が急遽決まった。

そうしたら、外高橋保税区の商社設立を担当する機会があり(1992年)、今のコンサルティング業務を始めるきっかけになった。

そんなこんなで今に至っている。



あの当時、浪人しなかったら(漢文の本を読まなかったら)、今中国にはいないはずだ。
現役の時は、希望校の一つで補欠になって、500点満点中2点差で落ちた。
あと2点取れる問題を間違えた瞬間まで、不思議に憶えている(狩野親子の名前を続けて書くところで、答えが分かったのだが、若干迷いがあり、手堅く行こうと考え、両方に同じ名前を書いた)。

あの時、藤堂先生が亡くならなかったら、違うゼミに入り、違う会社に入っていた筈だ。

あの時、北京の経理担当駐在員がアキレス腱を切らなかったら、今の仕事はしていない筈だ(アキレス腱を切るロブをあげた人を後で知った。あの時、ロブでなくて、速い球だったら、今の自分は随分変わっていただろう)。

こんな感じで、何かに誘導されるように、一つの方向にきている。

おそらく、今もそんな瞬間なのだろう。

こんな感じで導かれてきた中国と、まだ向き合ってみよう。

そんな事を思う、今この瞬間である。

蛇足ながら

先週、福岡で岩田さんと夜会食している際は、随分、ラフな格好をしていた。
一週間ちょっと移動続きで、スーツ1着だったので、着る物がなくなっちゃった訳だけど。

そんな格好で会食していたら、お店の人から、
「どんなお仕事ですか?トラックの運転手さんとかですか?」
と聞かれた。

「いやぁ、運転苦手なんですよ。サービス業ですけど」
と言ったら、

「接客業大変ですよねぇ」
としみじみといわれた。

はて、一体どんな職業と思われたやら。

PS 岩田様
   帰ってからバタバタしており、お礼のE-mail打てておりません。
   ご無礼の段、お許しを・・・
   この場を借りて、有難うございました。


SEEDで聞いた魔法の言葉

上海に出発。
今回は、たった1泊の上海。

現時点で書けない大きなうねりが、ここ2ヶ月以上続いていて、現時点では、身も心も「ぐったり」というのが正直なところ。
香港にいる時はSEEDに行って、1時間くらい一人で思い悩む事も増えている。
カウンターの端っこで一人、心を落ち着ける。

数日前、SEEDで一人物思いに耽っている時に、オーナーの宮野さんが、「いろいろ思うところはあるのでしょうが、でも、水野さんのもとに、人が集まってきてくれるっていうのは良い事ですよね」と話しかけてくれた(これだけだとちょっと意味が分からないと思うのですが、ご容赦下さい)。

その時、心がすっと動いた。
心が疲れ切っていて、そんな風に感じられなくなっている自分を突然発見した。
そして、どんな目的であれ、僕に会いに来てくれる人、関心を持ってくれる人に、感謝の気持がわいてきた。
僕に接点を持ってくれる様々な人に対して、感謝の涙が流れてきた。
魔法の一言ってやつだな。


今、僕のカウンターとして日本で心を砕いてくれている同期のS君。
僕の下で、2年間頑張ってくれ、週末に日本に帰国した水本君。
厳しい会社立ち上げ2年間を、必死で支えてくれた、今の部下の皆な。
提携先の方、クライアントの方々、飲み仲間、あと・・・
当然の事ながら家族。

ここから先、どんな選択をするかはまだ言えないし、不確定な部分があるけど、少なくとも、どんな事が有っても、感謝の気持の中で決断ができると思う。
あと、僕を信じてくれている人を、誰も裏切らないように生きていきたい。

不安な気持に流されない力を、僕がいつも持ち続けていけますように。


更新が全然改善されてなくてすみません

数日前にコメントで、ブログ更新頑張りま~す、とか書いておきながら、全然改善されておりません。
ごめんなさい。

ともかく忙しいです。
あと、今はかけないんですが、色々なことがあって、思い悩むここ暫くです。
って、数ヶ月悩んでるんですが。

おかげで、色々と気持もまとまってきました。

あとどう踏み切るかですが・・・

こんな時に、色々支えてくれる方々の声が助けになっています。

頑張ります。