答えは出た(導かれてきた道)

2月中旬から、深い悩みの連続であったが、遂に自分の中では答えが出た。
完全に吹っ切れた。
あとは、また走り出そう。

(最近こののりが多いけど)まだ、何のことかは書けないけれど、滞りがちだったブログの更新も元に戻るであろう。

ここ暫く、遅れ気味で失礼しました。

最近、色々な方と話している中で、「中国で仕事をするきっかけはなんですか?」と聞かれる事が多かった。
意図的に、初めての人とお会いして、会話をさせて頂く機会を作ったのが理由であるが。

僕が中国に興味を持ったのは、大学浪人中に、ゼミの漢文の先生が書いた漢文こぼれ話の本を読んだのがきっかけ。
浪人中に通っていたのは大船の代ゼミ。
夏期講習期間でちょっと余裕があったので、「多久の漢文王国」という本を買って、勉強が終わってから読んでみた。
これにすっかりはまって、一晩で読み終えた。
それまで、「堅苦しい」と思っていた中国が、随分、自由でしたたか、そしてたくましく感じて、急に興味が沸いてきたのである。

それで、大学の第二外国語は中国語を取る事にしたのである(現役で受かっていたら、ドイツ語にしていた)。
中国語を教えてくれたのは、漢字研究の大家であった藤堂明保先生。
人柄にすっかり惹かれて、2年生で藤堂先生の一般教養ゼミ(漢字研究)に入った。
ただ、先生は突然体調を崩され入院。
冬にやっと退院されて、ゼミ生一同で食事(中華料理)をご馳走になった。
その1~2ヶ月後、ラジオを聴いていたら、先生が急逝されたとの報道があり、ショックを受けた。

専門ゼミの選定は、その翌月(か翌々月)だったのであるが、「一般教養ゼミで、ろくに勉強しなかったのが悔やまれる。せめて専門ゼミも中国をやろう」と心に決め、中国関係のゼミに入った。


あとは、大学3年の時にはじめての中国旅行。
あの当時の不便な中国を、言葉もできず、1ヶ月ぶらついたので、あまりの辛さにしばしは中国に行きたいという気持はなくなった。
1ヶ月のありあまる時間。
公園、ホテルのベッド、電車の中で、ボーっとしながらミュージックテープを聞き(バービーボーイズ、浜田麻里が主流だった。時代を感じる)、「早く帰りたいよぉ」と思ったものだ・

ただ、就職活動をする時に、ふと、その時の旅行を思い出し、中国関係の仕事ができる会社(商社)に就職した。

ところが、最初に配属されたのは財務部。
当時の財務部は、中国駐在はほぼ期待できない環境にあったが、ひょんな事から中国研修に出る事ができた。

帰る時、元いた財務に帰る確立が高かったが、当時の経理担当北京駐在員(面識は無いけど)が、軽いアクシデント(テニス中にアキレス腱を切った)で帰国した事をきっかけに、中国担当の経理マンの育成という目的で、経理配属が急遽決まった。

そうしたら、外高橋保税区の商社設立を担当する機会があり(1992年)、今のコンサルティング業務を始めるきっかけになった。

そんなこんなで今に至っている。



あの当時、浪人しなかったら(漢文の本を読まなかったら)、今中国にはいないはずだ。
現役の時は、希望校の一つで補欠になって、500点満点中2点差で落ちた。
あと2点取れる問題を間違えた瞬間まで、不思議に憶えている(狩野親子の名前を続けて書くところで、答えが分かったのだが、若干迷いがあり、手堅く行こうと考え、両方に同じ名前を書いた)。

あの時、藤堂先生が亡くならなかったら、違うゼミに入り、違う会社に入っていた筈だ。

あの時、北京の経理担当駐在員がアキレス腱を切らなかったら、今の仕事はしていない筈だ(アキレス腱を切るロブをあげた人を後で知った。あの時、ロブでなくて、速い球だったら、今の自分は随分変わっていただろう)。

こんな感じで、何かに誘導されるように、一つの方向にきている。

おそらく、今もそんな瞬間なのだろう。

こんな感じで導かれてきた中国と、まだ向き合ってみよう。

そんな事を思う、今この瞬間である。

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