変わったものだ米事情

先日の日経新聞に、「コメの対中輸出前面解禁へ」という記事が載っていた。
変わったものだコメ事情。

1989年に福建省の福州に実務研修に出かけた時、初日にしたのはコメの確保だった。
当時の自由市場というところ(比較的良いものが手に入った)で、コメを買ってきたのだが、大変まずい。
ざるを振って、小石出して、何度もといで炊くのだが、透明ではない白さでばさばさ。
炊飯器から出して5分経つと固まってしまう。

当時オフィスが入っていた温泉大飯店の従業員食堂では、ご飯はブロック状になっていて、トングでつまんで、皿の上に乗せてくれた。
ご飯はよそう物ではなくて、つまむ(はさむ)もの。
そのぐらい水分が無くて、カチカチであった。

最初は、「コメなら何でも食べられますよ」と言っていた僕であるが、当時の福州のコメを食べてぎゃふんといった。
まずいコメってのはあるものだ。
思い知ったあの瞬間。
出張者も、皆同じ反応であった。

コメはあるのに、コメに飢えていた当時。


取引先の人が、香港出張に行く時、豪州米を5Kg買ってきてくれた事があるが嬉しかった。
廈門の免税品店で、日本種米、タイ米が買える事が分かったら、廈門出張が嬉しくて仕方が無くなった。
その後知れば、香港の廉価スーパーで売っているコメと同じ種類であるが、これらが手に入ったら、心からほっとしたものだ。

当時はまさに、コメにまつわる思い出が一杯だった。

それから約20年。
中国のコメの品質自体も上がったし、日本からの輸入米も手に入る。

まさに別世界だなぁ。

答えは出た(導かれてきた道)

2月中旬から、深い悩みの連続であったが、遂に自分の中では答えが出た。
完全に吹っ切れた。
あとは、また走り出そう。

(最近こののりが多いけど)まだ、何のことかは書けないけれど、滞りがちだったブログの更新も元に戻るであろう。

ここ暫く、遅れ気味で失礼しました。

最近、色々な方と話している中で、「中国で仕事をするきっかけはなんですか?」と聞かれる事が多かった。
意図的に、初めての人とお会いして、会話をさせて頂く機会を作ったのが理由であるが。

僕が中国に興味を持ったのは、大学浪人中に、ゼミの漢文の先生が書いた漢文こぼれ話の本を読んだのがきっかけ。
浪人中に通っていたのは大船の代ゼミ。
夏期講習期間でちょっと余裕があったので、「多久の漢文王国」という本を買って、勉強が終わってから読んでみた。
これにすっかりはまって、一晩で読み終えた。
それまで、「堅苦しい」と思っていた中国が、随分、自由でしたたか、そしてたくましく感じて、急に興味が沸いてきたのである。

それで、大学の第二外国語は中国語を取る事にしたのである(現役で受かっていたら、ドイツ語にしていた)。
中国語を教えてくれたのは、漢字研究の大家であった藤堂明保先生。
人柄にすっかり惹かれて、2年生で藤堂先生の一般教養ゼミ(漢字研究)に入った。
ただ、先生は突然体調を崩され入院。
冬にやっと退院されて、ゼミ生一同で食事(中華料理)をご馳走になった。
その1~2ヶ月後、ラジオを聴いていたら、先生が急逝されたとの報道があり、ショックを受けた。

専門ゼミの選定は、その翌月(か翌々月)だったのであるが、「一般教養ゼミで、ろくに勉強しなかったのが悔やまれる。せめて専門ゼミも中国をやろう」と心に決め、中国関係のゼミに入った。


あとは、大学3年の時にはじめての中国旅行。
あの当時の不便な中国を、言葉もできず、1ヶ月ぶらついたので、あまりの辛さにしばしは中国に行きたいという気持はなくなった。
1ヶ月のありあまる時間。
公園、ホテルのベッド、電車の中で、ボーっとしながらミュージックテープを聞き(バービーボーイズ、浜田麻里が主流だった。時代を感じる)、「早く帰りたいよぉ」と思ったものだ・

ただ、就職活動をする時に、ふと、その時の旅行を思い出し、中国関係の仕事ができる会社(商社)に就職した。

ところが、最初に配属されたのは財務部。
当時の財務部は、中国駐在はほぼ期待できない環境にあったが、ひょんな事から中国研修に出る事ができた。

帰る時、元いた財務に帰る確立が高かったが、当時の経理担当北京駐在員(面識は無いけど)が、軽いアクシデント(テニス中にアキレス腱を切った)で帰国した事をきっかけに、中国担当の経理マンの育成という目的で、経理配属が急遽決まった。

そうしたら、外高橋保税区の商社設立を担当する機会があり(1992年)、今のコンサルティング業務を始めるきっかけになった。

そんなこんなで今に至っている。



あの当時、浪人しなかったら(漢文の本を読まなかったら)、今中国にはいないはずだ。
現役の時は、希望校の一つで補欠になって、500点満点中2点差で落ちた。
あと2点取れる問題を間違えた瞬間まで、不思議に憶えている(狩野親子の名前を続けて書くところで、答えが分かったのだが、若干迷いがあり、手堅く行こうと考え、両方に同じ名前を書いた)。

あの時、藤堂先生が亡くならなかったら、違うゼミに入り、違う会社に入っていた筈だ。

あの時、北京の経理担当駐在員がアキレス腱を切らなかったら、今の仕事はしていない筈だ(アキレス腱を切るロブをあげた人を後で知った。あの時、ロブでなくて、速い球だったら、今の自分は随分変わっていただろう)。

こんな感じで、何かに誘導されるように、一つの方向にきている。

おそらく、今もそんな瞬間なのだろう。

こんな感じで導かれてきた中国と、まだ向き合ってみよう。

そんな事を思う、今この瞬間である。

蛇足ながら

先週、福岡で岩田さんと夜会食している際は、随分、ラフな格好をしていた。
一週間ちょっと移動続きで、スーツ1着だったので、着る物がなくなっちゃった訳だけど。

そんな格好で会食していたら、お店の人から、
「どんなお仕事ですか?トラックの運転手さんとかですか?」
と聞かれた。

「いやぁ、運転苦手なんですよ。サービス業ですけど」
と言ったら、

「接客業大変ですよねぇ」
としみじみといわれた。

はて、一体どんな職業と思われたやら。

PS 岩田様
   帰ってからバタバタしており、お礼のE-mail打てておりません。
   ご無礼の段、お許しを・・・
   この場を借りて、有難うございました。


SEEDで聞いた魔法の言葉

上海に出発。
今回は、たった1泊の上海。

現時点で書けない大きなうねりが、ここ2ヶ月以上続いていて、現時点では、身も心も「ぐったり」というのが正直なところ。
香港にいる時はSEEDに行って、1時間くらい一人で思い悩む事も増えている。
カウンターの端っこで一人、心を落ち着ける。

数日前、SEEDで一人物思いに耽っている時に、オーナーの宮野さんが、「いろいろ思うところはあるのでしょうが、でも、水野さんのもとに、人が集まってきてくれるっていうのは良い事ですよね」と話しかけてくれた(これだけだとちょっと意味が分からないと思うのですが、ご容赦下さい)。

その時、心がすっと動いた。
心が疲れ切っていて、そんな風に感じられなくなっている自分を突然発見した。
そして、どんな目的であれ、僕に会いに来てくれる人、関心を持ってくれる人に、感謝の気持がわいてきた。
僕に接点を持ってくれる様々な人に対して、感謝の涙が流れてきた。
魔法の一言ってやつだな。


今、僕のカウンターとして日本で心を砕いてくれている同期のS君。
僕の下で、2年間頑張ってくれ、週末に日本に帰国した水本君。
厳しい会社立ち上げ2年間を、必死で支えてくれた、今の部下の皆な。
提携先の方、クライアントの方々、飲み仲間、あと・・・
当然の事ながら家族。

ここから先、どんな選択をするかはまだ言えないし、不確定な部分があるけど、少なくとも、どんな事が有っても、感謝の気持の中で決断ができると思う。
あと、僕を信じてくれている人を、誰も裏切らないように生きていきたい。

不安な気持に流されない力を、僕がいつも持ち続けていけますように。


更新が全然改善されてなくてすみません

数日前にコメントで、ブログ更新頑張りま~す、とか書いておきながら、全然改善されておりません。
ごめんなさい。

ともかく忙しいです。
あと、今はかけないんですが、色々なことがあって、思い悩むここ暫くです。
って、数ヶ月悩んでるんですが。

おかげで、色々と気持もまとまってきました。

あとどう踏み切るかですが・・・

こんな時に、色々支えてくれる方々の声が助けになっています。

頑張ります。


福岡から香港へ

(引き続き更新が遅れています。すいません)

福岡より香港に戻る。
長い出張だったのでへろへろ。

「福岡から帰れば近いだろう」と思い、福岡⇒香港のチケットを買ったのだが、この便が台北経由で、空港で随分待たされた。
殆どメリットが無かったのが残念。
座り続けで腰痛になりそうだ。

香港に到着すると暑い。
「また、帰ってきたなぁ」と実感。


話変わって、今回(先週)日本で行なった講演は、「撤退から見た会社運営のリスク管理」という内容。

趣旨は、撤退するときには、様々な問題が顕在化するので、清算時に生じる問題を認識しながら、設立(進出)・会社運営を行なおう、というもの。

とは言えタイトルに撤退とあると、皆さん「ぎょっ」とする様で、まだまだこのテーマには抵抗が有るようだ。

勿論、昨今、加工貿易・輸出企業に対する規制が色々と行なわれていたり、人民元高、コスト高というマイナス面が、事有るごとに報道されている。
よって、従来のビジネスモデルだと、会社運営に困難が生じるケースが多く、その結果として撤退に繋がるケースが増えているのは否めない事実である。

但し、逆に(中国からみた)輸入⇒国内販売であれば、「儲けている」という実例も多い。
また、ここ数年、サービス分野の外資参入規制が徐々に緩和されてきているので、この様な新分野のビジネスチャンスは確実に出てきている。

日本や香港と比べれば、中国のコストはまだまだ安いし、富裕層も厚くなってきている。
こんなアンマッチを上手く生かせば、商機は転がっているのであろう。

要は発想の転換というところか。

福岡を堪能(ラーメン⇒焼き鳥⇒カクテル屋台)

焼き鳥屋で会食開始

福岡での面談開始。
午前中に2件の面談を行なうと、11時半頃時間が空いた。
朝食を食べていないので、早めに昼食にする事に。
今回のスケジュールだと、とんこつラーメンを食べるのは今日の昼しかない。
是が非でも!と考えラーメン屋に直行。
行ったのは、岩田さんお勧めの三九ラーメン
毎日食べられるラーメンです、という説明通り、あっさりしていて美味しい。
替え玉と言うのを生まれて初めてした。
ちょっと食べすぎ。

壁に、「取材拒否の店の恐るべき実力!」という雑誌の紹介記事が張ってある。
取材拒否の店だか、そうでないんだか良く分からないが、何となくほほえましい感じである。

午後の仕事を終えると焼き鳥屋。
岩田さん行きつけの山笠と言う店。
焼き鳥があっさりしていて大変美味しい。

赤霧島は入手がちょっと難しいようだ

また、入手が難しい、という赤霧島にもありつき二人で飲む。
福岡はいい所だ。
僕の知り合いの福岡赴任経験者が、口をそろえて「帰りたくなかった」というのも分かる。

行ってみたかったカクテル屋台

二次会はカクテル屋台。
一度行ってみたいと思っていた店だ。

ブルームーンを飲んだら強かった!
ジンに思わずむせてしまう。
ただ、いい雰囲気。

隣の屋台でTVの取材をやっているようで、芸能人が来ていた(らしく、若い女性がたくさん取り囲んでみていた)。
誰かさっぱりわからなかったが・・・


福岡で教え子(?)と会食

岩田さんと

かなりアップが遅れておりすみません・・・

横浜で一泊すると福岡到着。
福岡は3回目。

一番最初は2004年に香港貿易発展局が主催した、CEPAお披露目セミナーで講演した時。
次は去年。

福岡は、上海からは飛行機で1時間の近さだし、それなりに中国に対する関心もある場所なので、何かビジネスにつなげられないかと思っているのであるが、拠点も無いし、人脈も薄いのでどうしようかなぁ、と考えていたら、かつての教え子岩田さんがいた。

2006年頃に、小規模な中国ビジネスセミナーを僕が受け持った事があり、そこに参加してくれたのが岩田さん。
その後、僕がバタバタして時間がなく、ビジネスセミナーが開催されていないので、今のところ一期生=最後の教え子になっている。

ただ、その関係をまだ憶えて頂いており、福岡での面談のアレンジを色々として頂いた。
人の縁とはありがたいものだ。

福岡の夜景

久々の再会。
久々の福岡。

のんびりと食事をして明日の面談の打ち合わせ。
和やかに時は過ぎていったのであった。

天むすとまむし丼で大阪⇒横浜に移動

昨夜は大阪で中国研究会(の様な会合)だった。
という事で、朝3件の打ち合わせを東京でこなし(田町、市谷、東京駅)、大阪行きの新幹線に飛び乗る。

午前中の打ち合わせは、大雨で移動が大変だった。
なにやら強風で、中央線の信号機が傾いたとかで、電車はとまっていたし。
台風を思わせるような雨と風だった。

大阪到着は午後4時過ぎ。
久しぶりの大阪が心地よい。

ホテルにチェックインすると、丸紅大阪本社経由、香港貿易発展局に。
夜の研究会は7~9時。

加工貿易企業の近況などを話して、打ち上げは近所のそば屋。
過去に(社会人になってから)、早稲田大学の公開スクールで、中国語を習った事がある。
その授業の後に、先生・生徒一緒に食事をしたり雑談をしたけれど、丁度そんな雰囲気だった。
たまにはこういう雰囲気もいいなぁ、としみじみ思う。


移動中に食べた駅弁

一夜明けて横浜に移動。

M&Cで会員様向けに毎週配信している中国の法律集(NNAさんとも共同で、隔週で紙のものも販売中)のバックナンバーを販売する予定。
⇒ 先ずは、2006年の法律集。数ヵ月後に、2007年に公布されたもの(共に、邦訳・原文対比)を販売。

この編集の打ち合わせを新横浜で行なう事にしたもの。

お昼の新幹線に乗る。
土曜日だけど、新幹線は満員。
今日の昼食は駅弁にしようと前日から決めていたので、まずはいつもの「天むす」を購入。
それから「まむし丼(わかってはいても、この名称には抵抗がある)」にビール。

あまりお腹が空いていなかったので、1時間がかりでのんびりビールを飲んで食事。
ちょっと優雅なひと時。

まさに、忙中閑あり。

旧友と早稲田で会食

旧友と会食

上海での表彰式後、日本へ移動。
打ち合わせなどをこなす。

夜は、久々の早稲田で旧友と会食。
会食を共にしたのは、合気道時代に副将だった釜口君。

会食場所を早稲田にしたのは、お互い大学が早稲田で懐かしかったのと、最近、ちょっと精神的に疲れているので、大学生を見て元気になりたかったから。

源兵衛という居酒屋に十数年ぶり(もしかして、20数年ぶり?)に行ってみる。
ここは、学生街だけあって、料理が何でもでかい。
シュウマイも、普通の2~3倍の大きさ。
されでも、昔よりはちょっと小ぶりになった気も・・・

ただ、大混雑で(思惑外れて学生おらず、年配の大学教授ばかり)、いまいち落ち着かないので、場所をかえ、畳に座ってのんびり飲む。

やはり、学生時代からの知り合いというのは、気心知れておりくつろぐ。
結構飲んだけど、あまり酔わなかった。
こんな感じで、ボーっとしながら飲める酒はありがたい。

コンサルティングをはじめて7年。

2002年の頃は、最初の本が出て、これが予想外に売れて、TVにも出た。
その時は、皆な(期待していないので)なんか有ると、「すごいすごい」と褒めてくれた。

今はその時より、やる事は大きくなってる筈だけど、なにやら文句ばかりばかり言われている様な気がしてげっそりするのは、被害妄想(?)か、疲れているからか。
ただ、どんどんプレッシャーが大きくなってきているのは確かだ。

釜口君と飲んでいるときに言ったんだけど、「大学時代は、安い居酒屋で、サントリーレッドを飲んでても楽しかった。でも、今は、ジョニーウォーカーの青じゃないと駄目だとか贅沢な事を言って、それでも更に楽しめない。仕事もそんな感じで、不感症になってるのかもしれない」なんて思ったりする。

ちょっと疲れを取ろう。

まだまだ先は長い。
やらなくてはいけない事がたくさんある。

いま僕がやっている事は、人にやらされているのではない。僕自身がやっている。
その気持をしっかり持って、あと、気分一新して頑張ろう。
仕事に対する純粋な好奇心を大事にして。

中国ビジネスコンサルタント水野真澄のブログ