月別アーカイブ: 2009年12月
気持のくぎり
あとは、香港、上海、広州という3つの拠点すべての初年度黒字を目標に、最後の頑張りをしているところ。
黒字の達成が経営者の最低の責任とするのであれば、全拠点の初年度黒字達成は、第一段階の目標達成で、ほっとした気持。
前にも書いたけど、1年ちょっと前に丸紅を退職する事となったのは、ほんの数名の人間との衝突が原因だ。
退職前・退職後、たくさんの元同僚・上司が、「水野が丸紅を辞めても、俺たちは仲間として付き合っていく」と言ってくれ、そして、本当に、そうしてくれている。
退職後も、古巣に支えられている自分を感じる。
それが嬉しく、結果として、この1年は、丸紅という会社全体に対する感謝の気持、そして、その中の、ほんの数名に対する怒りが、僕の中に交錯していた。
ただ、会社が軌道に乗った事で、怒りも消えた。
残るのは純粋な古巣への感謝の気持。
だから、退社の顛末は、今後は、プライベートの場でも、必要に迫られない限り話すのをやめようと思う。
聞かれても答えない。
その意思表示の意味で、最後に、この一年半の事を書いてみたい。
僕が立ち上げた旧M&C(丸紅のコンサルティング子会社)は短命に終わったが、僕が指揮を取っている時は、一応、初年度より黒字だった。
基盤があった香港華南は当然として、後発参入となる上海(2006年7月営業開始)でも初年度から黒字を出したので、その意味では、他の人間にはできない滑り出しを見せたという自負はある。
ただ、業態の宿命で、商社の物差しで測れば利益は小さい(億円単位の純利益達成は困難)。
また、出資部門からは顧客情報の開示を絶えず求められるという悩みもあった(契約上、それはできないと一貫して断っていた)。
商社の中のコンサルティング業という、新しい業務の位置付けを明確にしきれなかったのは残念だ。
勿論、これには僕の社内調整努力不足という面もあるかもしれない。
そんな流れで、稟議計画通りの利益推移を2年間してきたにも拘らず、出資部門よりコンサルティング事業の撤退方針がでてしまった。
僕としては、かなり唐突感を感じる決定だったが、お互いが置かれた立場の中で、悩みながら決断した事だし、その決断をした部門長・部長は、「途中で投げ出す事になり申し訳ない」と謝ってくれた。
だから、彼らに対する恨みは全くない。
あと暫くすれば、感謝の気持ちに変わるだろう。
コンサルティング事業撤退にあたり(僕の帰国も示唆されていたので)、僕が出した条件は、「部下の雇用の確保」と「既存顧客に対する責任の履行⇒Q&Aサービスの継続(兼務でいいので、僕がQ&Aを側面サポートできる様にする事)」のふたつ。
ただ、これは何れも叶わなかった。
問題なのは、撤退方法を決める時には、本社の責任者が変わっていた事で、何故か、彼らと個人対個人の対立(一方的にだけど)が生じてしまった。
僕の著書の印税返却要求(これは既に本社人事部の同意も得ていた事なので、人事部判断で返却不要となった)、毎日の数時間毎の行動監視(電話)等、本筋から外れた信じられない事が毎日繰り広げられ、心身ともに疲れ切って、最後に、彼らと闘う事を決めた。
彼らの行動は、(僕はメディアで発言もできるので)なんか唐突な発言をされないようにきっちり見張ろうという趣旨か、若しくは、水野を操縦できるという社内プレゼンがしたかったためか、はたまた自由に飛び回っている様に見える僕への屈折した感情か。
ただ、僕の性格を考えると、明らかに逆効果だった。
辞表の提出は、「お前たちを上司とは思わない」という意思表示だった。
僕が辞表を出した事で、その数名は逆切れし(たのかな)、各種の方法で僕をつぶしにかかった。
何人かの丸紅の元同僚(先輩)が、場所は違えど「あいつら人間として許せない!」と、酒を飲みながら憤りを示してくれた事があるが、それが戦いというものであれば致し方ない。
その数名にとっては、余裕のない戦いであったのだろう。
ただ、戦いの方法として、一度、撤退方針を出した筈のコンサルティング業務を、自分たちでやろうとしたのは明らかに判断ミスで、結果、半年であっさり自滅してしまった。
本当に自分たちでできるつもりだったのかと呆れたが、そんな判断もできない事が、全ての事態を引き起こした原因であろう。
最近、アシスタントの水嶋さんから、「あの時の水野さんは怖かった。あんなに怒った水野さんを初めて見ました」と言われた。
確かに、怒っていた。
あれだけ長時間、怒りが継続したのは生まれてこの方初めてだ。
ただ、それがエネルギーになったのは確かである。
彼らは僕の辞め際に、「勝てるはずないから、大企業と戦おうなんて思うなよ」と言い捨てた。
ただ、彼らは社内の世論をつかめなかったので、大企業との対立という構図自体が生まれなかった。
却って、彼らの方が、社内の世論に晒されたのではないか。
顧客不在の戦いは、僕としては不本意であったし、部下にも不要の苦労をさせた。
ただ、当時の僕には、他の選択肢は与えられていなかった。
不本意ながらも迷惑をかけた方々には、この場を借りてお詫びしたい。
ただ、幸いだったのは、この争いの中で、僕も学ぶ事が多かったし、お客様・提携先・部下に対する感謝の気持も、格段に深くなった事だ。
そんな感じで学び、そして生き残った訳であるが、この結果だけを踏まえて、「僕に戦いを挑んだ相手(数名)に感謝している」というきれい事は、決して言わない。
悪意で僕を潰そうとした人間に対して、感謝すると言ったら絶対に嘘になる。
退職前は、「僕は丸紅に入社したのであって、こんな連中の所有物になったつもりはない。こんな連中の為に僕が辞めるのを、何故誰も止められないんだ」という気持ちでいっぱいだった。
ただ、考えてみれば、コンサルティングができないのであれば、この様な対立が無くても、僕は、独立起業を選んだだろう。
2001年からコンサルティングの顧客開拓をする際、「僕は梯子を外しません。信じて下さい」と言って契約を頂いていた。
僕を信じてくれた人たちを裏切ったら、自分に嘘を付いたら、僕は一生、自分自身を信じられなくなる。
それを考えれば、退職の道を選んだのは、間接的には自分自身と言えるのかもしれず、誰に文句を言う筋合いでもないのだろう。
後悔は全くしていない。
そして、顧客、元同僚、部下、提携先等、素晴らしい人たちに囲まれた僕がいる。
幸せだ。
応援してくれる方々の信頼に応えるべく、これからも努力しなくてはならない。
そして、僕を育ててくれた丸紅という会社には、外からになってしまったけれど、業務に協力する事で恩返しできればと思う。
おかしなもので、退職してからの方が、丸紅という会社に対する愛着は深まったようだ。
というより、丸紅の人たち(OB含む)に対する感謝と愛着と言った方が正確かな。
この一年で学んだのは、仕事も人間関係も、近道はないという事。
信頼を少しずつ得ながら、長い時間をかけて築きあげていく道のりだという事だ。
つまり、その人間が如何に生きていきたかが反映される。
嘘をつかない事、責任を果たす事、人の気持を考える事、前向きに生きる事。
そんな姿勢を続ける事でしか結果は得られないという事だ。
読みかじった様な、安易な資本の理論や組織論は、聞こえは良くても、何の解決にもならない。
この戦いの中で、彼らがそれを学んでくれればと思う。
そして、何時か胸に問いかけて欲しい、「こんな戦いをすべきだったのか」という事を。
周りを無視した戦いは、勝っても負けても無意味だし、すべきではなかった。
これを彼らが理解できたら、事後になってしまったけれど、一縷の評価はしてあげられる。
気持のくぎりはすっきり付いた。
これからも、前向きに生きていく。
そして、この話題も、今回で終わりだ。
またもや移動
飛行機に乗ってばかりの生活が辛い。
あと、香港では、Tシャツでいられる気候だったのが、上海到着で急に寒くなるので、これまた体にこたえる。
年末まで全力疾走して、来月はちょっとペースを落としたいなと思う。
さすがに体を壊しそうだ。
麻婆麺に取りつかれた日本滞在
金曜日のフライトで香港に。
日本滞在中は、なにかとバタバタして大変。
今回の滞在中、ある夜ふと麻婆麺が食べたくなった。
一度考えると無性に食べたくなる性質なので、翌日目に付いた王将で食べてみる。
ただ、(一緒に食べた餃子はなかなかだったが)麻婆豆腐はいまひとつ。
満足できずに、翌日は新橋亭で昼食時に食べる。
これは美味しかったが、麻婆麺ではなく麻婆豆腐。
いまひとつ課題を残したまま成田に到着したので、ここで中華を食べてみる。
やっとあった麻婆麺。
凄く美味しい、という味ではなかったが、まあ最後に麻婆麺が食べられたからいいかという感じ。
指定して通常より辛くしてみらったけど、さほどの辛さでもなし。
こちらは炒飯。
どちらかと言えば、こちらの方が味が良かった。
日本は移動に時間がかかる
実家にて食事
年80回飛行機に乗る人の生活は?
今日は土曜。
午前10時半から仕事のE-mailを打ちはじめて、終わったのが既に午前1時過ぎ。
(まあ、ずっと仕事してた訳ではなくて、途中で2時間ほど散歩に行ったりとかしたけど)。
あとNNAの連載を一本書いて、荷造りをしないと寝られない。
朝7時半には家を出発なので、結構辛い。
あ~移動が多い生活は大変だ。
まあ、移動の多い生活に慣れてしまったのは確かなので、丸紅を退職する前の1ヶ月、殆ど出張がなかったら、それはそれで辛かったけど。
ただ、僕のこの1年間のマイレージ実績が、キャセイ&ドラゴンで40回搭乗。
JALや東方を足しても50~60回だろう。
平均、4~5回/月という感じ。
それを、キャセイ&ドラゴンで80回以上のる人がいる訳だから(そうすると、ダイアモンド会員になる)、その人はどういう生活なのだろう!?
ダイアモンド会員になって、ファーストクラスのラウンジは使ってみたいけど、そういう生活をするのは嫌だな。
身内だけで中華で打ち上げ
南沙講演会が終わると、広州のオフィス(中信)に戻り、30分で時事通信の連載原稿を書き上げる(あせり狂って、2か所ミスタイプをした事が翌日発覚)。
講演会で頑張ってくれた、水嶋さん、麦さん、楊さん、あとは参加してくれた丸紅の方と、オフィスのある中信広場の東海で、ささやかな打ち上げ。
疲れているので、歩ける場所で会食をしたかったのが、東海を選んだ理由。
東海で食べたのは、思えば4年ぶりくらい?
久しぶりに食べると、なかなか美味しい。
このスープはあっさりしてて美味しいし、トマトのたまご炒めも、たまごの硬さが丁度フィット。
本当は、エビのたまご炒めにしたかったんだけど、エビのカニみそ炒めを頼んでしまったので、重複を避けトマトにしたもの。
中国い来る前(大学時代)は、トマトのたまご炒めなんて料理がある事が信じられなくて、どんな味になるのか、自分で試しに作ってみた事があった。
その時は、タネを抜くのを忘れたので、びちょびちょになってしまったけど。
あとは、タイ風カレー。
何故、中華料理屋でタイ風?
まあまあ美味しいけど、どちらかと言えば、中華料理屋なら麻婆豆腐をご飯にかけた方が(個人的には)好ましい。
ともあれ、1時間くらいでそそくさと食べ、講演会の実務をやってくれた3名は、そのまま帰ってばったりと寝たそうな。
あとは、これがエビのかにみそ炒め。
清炒蝦仁の方が美味しかったかな。
しかし、撮った写真が全部ぼけぼけだ、
政府機関も随分変わった
今回の南沙保税港区セミナーは、終了後に、「政府と民間が一体になった新しい誘致の形」と言ってもらい、随分喜んでもらった。
上海外高橋でも同じことを言われたし、蘇州総合保税区では、「こんなにコストパフォーマンスの良かった企画はない(費用と集客)」と言ってもらった。
広州物流園区は、喜んでたのかどうか、いまいちコメント(フィードバック)がないので、ちと拍子抜けしたものだが。
とおあれ、年に数回政府関係と共同講演会を開いているが、政府関係者の前でも、自由に振舞って発言する僕を、各地の政府機関の方が、寛容に受け止めてくれるのは大変ありがたいと思う。
また、今回のセミナーは、特に、政府関係者との一体感が強く、実務者同士の連帯感も生まれた気がする。
講演会の前は、ホテルの食堂の円卓を数卓借りての昼食(関係者入り混じって)だったけど、各テーブルで、適当に数品を頼み、座った人たちは食事をかっ込むと、「じゃあ、準備に行ってきます!」とそそくさと立ち去っていく。
そんな政府関係者を見ると、中国の政府機関も随分変わってきたな(良い様に)と感じる。
南沙に初めて足を運んだのが2002年。
その後、ここで何かできないかと何度か考えたものだが、7年がかりで一つの形が見えてきた気がする。
何か実績を作ろう。
そして、次の講演会(来年)の企画も立てなければいけない。
さて、何をしようかな。
南沙保税港区セミナー開催
12月2日に南沙保税港区セミナーを開催した。
満席のご来場を頂き、政府の方々にも喜んで頂いた。
最初、200人の定員と聞いていたけれど、座席を数えてみたら、261席。
それが足らずに、臨時椅子が20席くらい使用されたので、関係者(20名程度)を勘定に入れても、250~260人ご来場頂いた事になる。
当日は、TV局や新聞社も取材に来ていたので、かなりの活気だったし、保税港区の現場視察(税関の説明付き)も面白かった。
いつもは時間を延長しがちの政府機関の発表も、ほぼオンタイムに進行し、驚くほど順調な講演会であった。
終わったら反動でぐったり。
翌日午前中は、ぼーっとして頭が働かない状況。
水野広州の麦さんや楊さん、提携関係で政府機関対応をやってくれた大蒲の王総経理、鶴岡さんには、随分大変な事前準備をしてもらった。
皆から比べると、明らかに当日数時間働いただけの僕の方が楽な筈だが、精神的なものだろう。
緊張と責任感が張り詰めるから、反動でどっと来るのだろうな。
翌日(木曜)は東莞、深圳周りで香港到着は夜。
今日(金曜)はぐったり。
3件、面談があったけれど、これがなかったら休みを取りたいところだった。
そんな訳で、明日(土曜)はひたすら寝よう。