新規事業の苦い思い出

一昨日、新規事業に関する考え方を書いたが、これに付いては若干苦い思い出もある。

1989年に僕が福州に実務研修した頃に、枝豆の栽培プロジェクトがあった。
当時、中国本土の人に枝豆と言っても、人が知らない人が殆ど、という状況であった。
ただ、日本が輸入地としていた台湾のコストが高くなっていたので、環境が似ている廈門で枝豆を栽培をしようと計画した人がいた。
僕の赴任前から実験を進めていたのであるが、赴任後、僕が中国側の担当となった。
とは言え、物事なかなかうまく進まない。

栽培を行うために、相当量の種子を廈門で輸入する必要があったが、これが認められない。
これは福建省長ミッションが訪日した際に、事業の有効性を直訴した事で前に進んだが、宛先違い(農の簡体字の「农」を、日本側で衣服の「衣」と書いてしまった)で、輸入・配送を拒否される。
その後、やっと問題が解決すると、中国側パートナーがおっとりしていて(その上、あまりやる気が無かった様だ)、水をやらずに枯らしてしまったり、栽培記録を着けなかったり。
おまけに、僕が「ちゃんと対応してくれ!」とあまりに頻繁に督促していたら、中国側パートナーから煙たがられてしまった。
如何にも、一時代、二時代前の中国ビジネスという感じである。

そうこうしているうち、他の会社が同一事業を成功させてしまい、数年後には中国で枝豆が一気に普及した。
それを知った時は、「普及する時はこんなに早いのか」と驚いた。
前回書いた、台湾の不動産仲介業者の時の感想と同じである。


失敗するにはそれなりの理由がある筈で、パートナー選定の失敗が一番大きい要素であるのは確かだ。
ただ、外国企業と非営利単位の間で動く機関を介在させる等して、話を上手く勧める様な検討をすべきだったし(ビジネススキーム作りの失敗)、僕自身、若くて知識が無い中で、やる気が先走っていた(空回りしていた)面は否めまい。
中国の法制度をしっかり理解した上で立ちまわれば、種子の輸入に付いても、もう少しスムーズに進んだであろうし、中国側パートナーも、「こいつはよく分かってるな」と思えば、煙たくても動かざるを得なかったであろう。
また、通訳を使わず、全部僕が中国語でコミュニケーションしていたのも、適切ではなかった気がする(十分な意思疎通が図れなかった)。

その意味では、(あれから20年以上経過して、仕事も変わってしまったので、今の僕が、この様な商社的な仕事をする気は原則としてないが)今の僕だったら、もっと上手くやれただろうと反省する事は多々ある。

新規事業は、経験が無い中で走らなくてはいけない面が多いので、どうやってベストな選択をするかは難しい問題だが、成功するにも失敗するにも理由はある。

熱意、意思という要素が大きいのは確かであるが、それ以外にも、経験・知識、状況分析力と行動力等、いろいろな要素がある。

そんな事が徐々に分かってきたのも、過去の、この様な苦い経験を経ての事である。

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