こ熊やから衡山路の前の部屋に

昨日まで上海。
久々に、准海中路に足を延ばし、こ熊やで会食。
古北で生活していると、前の生活圏(茂名南路、衡山路)に出かける機会がとんとなくなってしまっているが、行けばさすがに懐かしい。
茄子の胡麻和え、茄子揚げ、落花生豆腐、トンカツタルタルソース、地鶏の塩焼きを食べながら、サントリー角瓶をお湯割りで楽しむ。
そのあと久々にCI5に行くが(有馬さんが北海道に帰ったので、足が遠のいてしまっている)、グラスワインに口をつけたところで、三井さん(NNA)が、「さっきのウィスキーが効いてきて気持ち悪いです」と、継続断念宣言。
10時には会食が終わってしまった。
そのまま帰る気にならず、昔住んでいたアパートまで歩いていく。
酔い覚ましがてらの15分程度の散歩だ。

華南でコンサルティングを開始した僕が、上海に拠点を持ったのは2006年の事。
丸紅出資ながら、社内ベンチャーという意識が強かったので、当時の丸紅の単身者の家賃限度額の16,000元/月をあっさり無視して、安さを追求して決めたのがここ。
家賃は3,000元だった。
今から考えると、物件の割には高かったような。
ただ、当時駐在員の間では変人扱いされたり、スタンドプレーだと言われたりしたけれど、上海にビジネスを構築するまでは贅沢はしない、と自分にプレッシャーをかけるためにも、通常の家賃限度を参考にするつもりは全くなかった。

写真は、過去に撮りためてあったものだけど、
これがエレベーターの中。
そして下がエレベーターホール。

ただ、良いところに住むために頑張るんだ、というモチベーションにはなった。
また、起業した時、杉山君や上海総経理の胡さんから、僕に着いて行こうと決めた理由の一つとして、僕がこういう姿勢(稼ぎがないうちは贅沢しない。駐在員の福利厚生にこだわらない)を見せたのも、一つの要素になっている、という話をされた。
それだけでも、やってよかったなと思う。

結局、この部屋には、2006~2008年まで住んだ。
前の出資部門から指名された後任社長は、「水野の部屋は丸紅契約だから、会社を辞めたら出てってもらわないと」と言ってたけど、さすがにこの部屋を見たら絶句していた。
結局、住む人間がいないので、即解約となった模様。


いまは、上海でしっかりとビジネスを構築しているので、さすがにもっと良いところに住んでいる。
ただ、あの部屋が、僕の上海ビジネスの原点だったという意識が強い。
あの頃は、何であんなに意地を張っていたんだろう、と不思議にもなるが。
孤独の中、そして、ろくに暖房が効かない部屋で、冬の寒さに震えながら、「上海は後発参入だけど、絶対ビジネスを開拓してやるんだ」と誓った事を、懐かしく思い出す。
だから、初心を忘れそうになった時は、今でもつい衡山路に見に行ってしまう。