無駄な経験はないという事か

昨日のブログで、子供時代の事をちらっと書いたが、今から思うと少年時代の自分は、ちょっと変であった。
小学校3年生の頃からクラシックギターを習い始め、中学校の頃は、ギターを弾きたいという理由で、部活動をしなかった。
ギターを弾いていない時は、クラシック音楽を聴くか本を読んでいるかのどちらかで、その時間を確保したいので、友達から遊びに誘われるのが嫌だった。
また、小学6年で古い映画にはまり、ジャン・ギャバンやクラーク・ゲーブルの映画を好んで見ていた。
当時のあこがれの女性は、アンナ・ベラ(ルネクレール監督の巴里祭の主役)とオードリ・ヘップバーンという、何ともませた子供だったなと思う。
欧米に対する憧れが強かったので、小学校の頃から英語だけのピーナッツブックス(スヌーピーが出てくるマンガ)を買って、辞書で強引に翻訳したり(文法が分っていないので訳は滅茶苦茶)、独学でフランス語を勉強したりした(ものにならず)。

そんなちょっと変わった子供だったのが、大学で酒を憶え、合気道を始めると、何時もコンパで飲み歩き、打ち身であざが出来ては喜び、筋トレで腕が太くなれば自慢し、という、それまでとは正反対の人間になってしまった。

社会人になると、最初の数年はひたすら仕事。
当時の商社は、運動部と同じで根性論がまかり通る世界だったので、その中、上を目指して歯を食いしばって仕事をしていた。
この点は、今でもあまり変わらない。

こんな風に、僕の性格・志向は、高校生以前、大学時代、社会人時代で大きく違う。
一番たるんでいたのは大学時代(合気道と飲み会に没頭)。
でもこの時に、外国に対する興味が欧米から中国・アジアに移ったり、酒や武道で、根性や社交性を身に着けたりしたのが、今に繋がっているのは確かだ。
高校以前の経験は、当時よんだ本、聞いた音楽等の知識がいまだに役に立つので(初対面の人とも、何らか共通点を見つけて話が合わせられる)、当時の知識収集は有用であった。勿論、あんな浮世離れした性格に戻りたくはないが。

いまの自分が一番と思いたいが、この点は、人からどう思われているか、ちょっと怖い気もする。
ただ、半生を振り返ってみると、時々で全くばらばらの事をやっている様で、一つ一つの経験が、いま何らかの役に立っている。
何事も無駄になる経験はないという事なのだろう。