TV出演

TV出演の件ですが、詳細は以下の通りです。

BSジャパン アジアの風(日経スペシャル)
6月30日(土)昼12時半~
詳細はこちら
ご興味のある方は是非。

思い返してみると、NHKの経済最前線に出演していたのが、2002年11月~2003年6月なので、9年間もTV出演していない事になる。
3年前に、ガイアの夜明けの取材を受け、放送直前まで行ったのだが、重要な一コマの撮影が取れないのが原因で放送直前でお蔵入りになった。
これは、リーマンショック後で、韓国企業などの夜逃げが問題になっていた頃、撤退関連の相談を受けている絵が欲しいという希望があったが、さすがにこれは撮影してもらう訳にはいかなかった、というのがお蔵入りになった理由。
そんな訳で、僕の紹介で使用している、「新聞・雑誌での連載、書籍の執筆、TVなどで活躍」という文章の、TVという部分は、ちょっと使い辛くなってきたなぁと思っていた頃なので、タイミングとしては良かった。

さすがに、10年前とは違い、TV出演に対して、僕自身それ程強い興味はなくなっている。
ただ、今回は、コンサルティングをしている状況を、そのまま撮影するというものなので、僕自身も抵抗なく受けられた。
次回以降の出演がいつになるかは未定だが、ともあれ、楽しく初回の収録が行えた。

因みに、9年前に出演した経済最前線は生中継で、初回は極度に緊張して、NHK香港支局前の歩道橋の長い階段から転げ落ちそうになったり、リハーサルで絶句してしまったりした。
ただ、何事も慣れとは重要で、2回目はさほど緊張もせず、3回目からは淡々とこなすことができるようになったし、収録物はまったく緊張もしなかった。
生まれて初めてのTV出演が生放送、というのは過酷な体験だったが、一度経験すればあとは楽だったので、良い経験だったと言えるのだろうか。


広州日帰り・はちべえで社内会食

広州の社員達と

深圳・広州日帰り出張。
深圳では、斉藤顧問と打ち合わせ。
広州では、軽く業務をこなしてから社員と会食。
広州の社員も5名。上海は5名+顧問弁護士・顧問税理士。香港と日本を合わせれば、全体で24名の会社となった。
3年半前までは僕一人だった事を考えれば、この成長は嬉しい。
社員が50人、そして100人となるのは、何年後の事であろうか。

社員は少なくてもいいのではないか、とか、極論すれば、僕一人でいいのではないか、と言われる方もいるのだが、社員の誰かが辞めたとしても、極論すれば、僕に不慮の事態があっても、変わらぬサービスを提供するのが組織の責任である。
それを考えれば、人材の育成は欠かせない。
数年がかりで社員を一人一人育てていくのが重要で、最近になって、過去の努力が実ってきた事を実感する。
大企業に勤めていると、人材の替えはいくらでもきくので、一人一人の社員がどれだけ大切か、という事を忘れてしまいがちだ。
これくらいの規模の会社だと、社員がどれだけ大切かを実感する。
そして、ずっと会社にいてほしいと心から思う。

広州の総経理の麦さんは、僕と15年一緒に働いており、最初に会った時は、大学新卒の社員だった。それが、15年の業務経験力をつけ、最近では、すっかり総経理らしくなってきた。
損益分担契約を結んでいるので、実質的には僕と共同経営者である(上海総経理の胡さんも同様)。
今の若手社員達が、15年後にどれだけ成長しているか、そして、例えば関係会社の総経理等になっているであろうか。
そんな事を考えると楽しみである。

会食は、最初は普通のつまみ(出し巻玉子、厚揚げ豆腐、餃子 etc.)から始まったのだが、若い人間が多いので、比較的早めに主食系に入る。
昔懐かしナポリタン(40代以上はつい注文してしまいそうなメニュー)、ナシゴレン(僕が頼んだがこれは失敗で、誰も食べなかった)。

ラーメン系は安定している。
こってりラーメンにつけ麺。

そんな感じで、ざっくばらんに飲んで、夜8時45分に散会。
9時半発の直通車で香港に帰任。

久々の休養

土曜日の午前中は面談。
場所が銅鑼湾だったので、銅鑼湾広場2期の台湾牛肉麺屋で昼食をして帰宅。
NNAの連載原稿を執筆して就寝。
日曜日は疲れが一気に噴き出して、夜まで寝て過ごす。
これだけ寝たのは久しぶりだ。
ここ数日(20日の日本から上海への移動以降)、軽い頭痛が続いていたのだが、おかげで完全に回復した。
やはり、休養は必要だ。

NNAの連載は、中国の資金用途制限とその管理方法。
日本では「金に色はない」とよく言われるが、金に色を付けるのが中国の資金・外貨管理。
これを可能とするのが、銀行口座の細分化。
中国では、資本金口座、借入金口座、借入金返済口座、経常口座等と、目的に応じて口座の種類が分かれている。
これにより、銀行、外貨管理局の用途管理が可能となるもの。
その詳細を、1700字で解説。

景気の悪さと時候の挨拶

上海の日本料理屋で食事をしている時、中国人店員さんから、「最近、日本に何が起こっているんですか?よほど景気が悪いんですか?」と質問を受けた。
「景気が悪いのは、昨日今日始まった事ではないし、最近、極端に落ち込んだような事は無いはずだけど、どうしてそんな事を聞くのかい?」と聞き返してみる。

その時の答えが、「うちに来るお客さんが、みんな、日本は景気が悪いとか、もうだめだとか、会社も大変だとかいうんですよ。日本の景気が悪くなって、お客さんが減っちゃうと困るんですが・・・」というもの。
それを聞いた僕は笑いながら、「日本人が景気が悪いとか、会社が大変とか、部下が働かないとか、上司がひどいとかいうのは、時候の挨拶みたいなもので、中国人が、今日は天気が良いとか悪いとかいうのと同じ事。聞き流しておけばいいよ」と答えておいた。

前も、新聞取材の時に行った事があるのだが、日本人は、景気に対する不安・不満を漏らす事が、インテリジェンスの証だと思っている節がある。
そのため、何時でもネガティブな発言をしがちであるが、改革努力を伴わないネガティブ発言からは何も生まれないし、後ろ向きのオーラが広がってしまう。
病は気からという事もあり、ポジティブな発言を増やした方がよいのではないか。
変わってほしい部分である。


日本出張は八海山純米吟醸で〆

3泊4日の日本出張(17~20日)がハードだったので、上海到着直後に若干体調を崩し、数日ブログの更新が止まってしまった。
急ぎのご質問をいくつか頂いていたので、歯を食いしばって仕事をしていたら、何時しか治ってしまったが。

19日のみずほ総研の外貨管理セミナーは、6時間(休憩時間が入るので、講演時間自体は7時間)を一人で話すので、喉、腰への負担がきつい。
ただ、進行も順調だったし、今後の講演会のアイデアももらったし、楽しく話せたのは確か。
☆ ちなみに、みずほ総研主催セミナーのは、9月6日に組織再編。
  12月11日にケーススタディで分析する日中間のビジネスモデル。
  以上の二つが年内に決まっています。

20日は、成田に行く前に、永田町でプレジデント誌の取材を受ける。
中国で売れた日本の商品を10個紹介し、その理由を分析するとうもの。
先日収録した、BSジャパンのアジアの風(既収録分は6月30日放映。その後も出演予定)も、日本の製品をどうやって中国に売るかというコンサルティング。
僕の専門は、経営コンサルティング、実務ソリューション等の、制度面・実務面が主体だが、自分の器を広げるためには良い機会かと思って、マーケッティング的な内容を引き受けたもの(若干、角度が違う仕事をする事が、自分にとっての勉強にもなるという意味)。
ただ、僕なりの視点で、ちょっと面白いアプローチができたのではないかと、自分では思っている。

因みに、プレジデントの取材で、文章をまとめてくれるのは、大学時代のゼミの友人である山田清機君。彼は、ちょっと前に、華鐘コンサルティングの古林代表の半生紀を書いた人物。
ただ、大学卒業以降、僕とは全く接点がなかった。
大学卒業20数年を経て、旧友とこんな形で仕事ができたというのは、嬉しかったし、昔を思い出して、ちょっとしんみりしてしまった。
そんな訳で、取材の後は、東京駅の紀伊国屋で日本酒(八海山純米吟醸)を買い込んで、成田エクスプレスの中で一人で祝杯。

焦ったときは・・・

数か月前の事。
スカイライナーで日暮里に到着し、JRに乗り換えようと思っていると、改札が開かなくて困っている人がいた。
異なる線の乗り換えなので、スカイライナーの切符を入れた上で、検札機にスイカをタッチする必要があるのだが、スイカが無ければ、乗換窓口(すぐ近く)で精算すればよい。
どうするのかなと見ていると、自動改札の仕切りを跨いで乗り越え(足が長い!)、スカイライナーの切符をそのまま検札機に残したまま、JRの構内にすたすたと歩き去って行った。
想像しうる中で、おそらく最も悪い選択だったので、思わず感銘を受けて、立ち止まって後ろ姿を見守ってしまった。
せめて、スカイライナーの切符を持っていけば、JR乗車駅の証明はできるのだが。
改札口でまごついているところを人に見られていたので、焦ったのであろうか。

ただ、仕事でもこんな事はあるものだ。
立ち止まってじっくり考えれば、若しくは、人の目を忘れて対応すれば、ベターな選択ができるのに、焦って、人目を気にして決断すると、最悪の選択をしてしまう事がある。
問題に直面した場合、焦ったまま決断する事は誰にもあるが、間をおいて考え直すと、身近にもう少し良い選択肢があるかもしれない。
そんな事を考えた出来事であった。

空港でドーナッツを食べながら

これから日本に移動。
ちょっと疲れが溜まったので、空港のPacific Coffeeでドーナッツを食べながらE-mail整理中。

この一週間(10~17日)は、4回飛行機に乗り、水曜日にはTV番組(BSジャパン)の収録があるなど、体力的には辛かった(TV出演の話は後日)。
おかげで、昨日(土曜日)は、NNAの連載原稿を書いた以外は、ほぼ一日中寝ていた。
非生産的と言えばその通りだが、ゆっくり休めて、幸せを感じた1日であった。

これから飛行機内で、三井住友銀行の会報執筆、みずほ総研の講演会の準備をしなくては。
3泊の短い日本滞在であるが、明日は都内で面談3件。
明後日は、みずほ総研主催の外貨管理セミナー(7時間の長時間セミナー)。
水曜日は、雑誌(プレジデント)の取材を受けてから成田に移動。

慌ただしい日程がしばらく続くかな。

社会常識・会社の常識

職場の雰囲気は上司によって大きく変わるが、僕が新入社員で配属された課は、体育会系で、「体で憶えさせる」ポリシーだった。
部員の面前での罵詈雑言は日常茶飯事で、理不尽な事がたくさんあった。
ただ、大学時代に合気道をやっていた事で、理不尽さにはそれなりの慣れがあり、何とか乗り切れた。
結果として、新入社員の課が雰囲気的には一番強烈で、あとは、どこに配属されても良くなる一方。最初の一年を乗り切ったら、あとは楽だった。
若いうちに理不尽さを経験するのは、それはそれで重要なのかもしれない。
ただ、新入社員時代に、「いま知らないのは恥ずかしくない。怒鳴られて憶えろ。ただ、知らないままあと10年経ったら、恥どころか怖い事だ」とよく言われた。
確かに、それは言える。
憶えているのは配属二週間目に、外部に対して身内に丁寧語を使ったら、馬鹿野郎と一喝され、瞬時に体に刻み込んだ。
あの時、一喝されていなかったら、30代になっても顧客に対して、「田中部長(自分の上司)はもうすぐ戻られます」とか平気でいっていたかもしれない。
そう言われた相手は、十中八九、心の中で「いらっ」としている筈だが、口には出せず、日本語もろくに理解できないやつ、という人物評価だけを残してしまう。
更に、それを指摘されて、(そんな事は重要じゃないとか)開き直ったら最低だ。
それを考えると、新入社員時代の組織に感謝する事は多い。
厳しいけれど、部員間の仲間意識や人情はあったし、教育する姿勢はしっかりと有った。今では懐かしい思い出だ。

大企業中小企業がは良いかというのは一概に言えないが、少なくとも大企業は人数が多いだけに、指示・教育も行き届く。
たくさんの事を体で学べるのは確かであろう。

その一方で、その企業だけの文化が育ってしまう。
例えば、以前の職場では、社内レターに、田中部長と書くと怒られた。
新入社員の時に、上司から「お前は部長を呼び捨てにするのか」とつるし上げられている人間を見て、「名前の後に役職を付ければ敬称になると、学校では習った筈だがなあ」と割り切れない気持になった。ただ、田中部長殿と書かないと失礼になるのが社内文化であれば、それに合わさざるを得ない。
あくまでも正しい日本語の使用を標榜するのであれば、会社を辞めて学者を目指して頑張ればよいだけだ。
これは前の職場の一例で、無数の企業に無数の文化がある訳で、これらを全て把握するのは不可能だ。
結果、「丁寧すぎて変だと思われても、怒らせる事はない筈。ならば、極力丁寧に振舞おう」と考えるようになった。
あるべき論として、これが正しいかどうかはさておいて、まあ、社会人の発想(理論ではなく実践)という一例であろうか。

子供の頃の味覚

日本出張時にスーパーによったら、マルシンハンバーグがあったので買ってしまった。
これを最後に食べたのは、小学校3年生頃だったと思うのだが、子供がひきつけられる特殊な味、という記憶があった。
小学校時代、食べるのが苦痛だった僕は、普通のハンバーグは好きではなかったが、マルシンハンバーグは喜んで食べた。
さて、どんな味だったのだろう、と30数年ぶりに食べてみると・・・
結構、普通の味だ。

記憶が増幅されているのか、大人になったから強く引き付けられなくなったのか。
ただ、久々に食べて、ちょっとうれしかった。

就職活動の思い出

日本に出張時にリクルートスーツを着て汗をかきながら走り回っている若者を見ると、昔を思い出したり、同情したり、胸の中で頑張れよ、と応援したりする。

何分、何の不安も悩みもない子供時代、学生時代を送った僕にとって(親に感謝せねばならない)、就職活動は最初の試練だった気がする。
今から思えば、それ程でもない、と言えるだろうが、打たれた経験がなかった当時の僕にとっては、立派な試練である気がしたものだ。

何が辛かったかというと、「誰を信じてよいのかわからない」という人間不信を、初めて味わった事であろう。
本気で人を疑うという事もなかった当時の僕にとって、入社面接でかいまみた社会の冷たさはショックであった。
面接で採用が進んでいくので、相性で落とされる事もあるが、落とされれば人格を否定された様な気がした。
就職活動期間は、数週間程度であったが、1年間にも匹敵する苦しさであった。

当時の僕は世慣れておらず、面接で、相手に聞こえの良い発言をする事がなかなかできなかった。第一志望の会社に対しても、「第一志望です」と素直に言う事ができず、「全部受かったらどこに行きますか」と質問されて、絶句した事もある。
当時、どこの面接でも胸を張って「第一志望です」と言える同窓生を、羨ましさ半分・拒否感半分で見ていたが、そういう人間が、どんどん就職を決めていく。
世の中とはこういうものか、と学んだ気もした。

ただ、世の中よくしたもので、そんな僕でも気に入ってくれる面接官・人事責任者がいて、無事、第二志望の会社に就職できた。
学生時代の僕が就職を希望したのは資源関係で、面接を受けたのは、商社(3社)、ガス(1社)、石油関係(2社)だった。
中国でエネルギー資源開発をやりたいという希望を持っていたので、それができる商社に一番惹かれていたが、その前に内定をくれた外資企業の人事部長から、「志望の会社に落ちたら言ってこい。それまで待っていてやる」と言ってくれた時は感動して、丸紅に合格した時、ウィスキーを持って挨拶に行った。
また、数回目の丸紅の面接で、緊張でふらふらになっていた時、若手の人事部員が、「大丈夫か!」と肩を抱いて励ましてくれ、ちょっと元気になった事もあった。
辛い時だけに人の情けが身に染みた。

社会に出てから、話術、面接術、交渉術は随分磨かれ、学生時代の僕とは別人になり、学生時代の稚拙な面接状況を思い出すと恥ずかしい。
ただ、あれはまさに社会の入り口だった。

入社してからの人生の試練は、入社試験とは比べ物にならないくらい厳しいけれど、あの時感じた恐怖、不信感。そして、感謝、感動は、いまだに覚えている。

就職活動中の若者を見て、声援を送りたくなるのは、そんな思い出があるからだろう。