連日都内を散歩

明日で9月も終わり。
8月末に、9月に2Kg体重を落とす計画を立てたが、1Kgしか減らなかった。
計画が狂ったので、10月は2Kg落とさねばならない(元の計画では10月は1Kg減であった)。
ともあれ、あと2Kg落としたら目標達成で、あとは現状維持を続ければよい。

そんな訳で、昨日と今日は12Kmづつ散歩。
都会の散歩はあまり面白くないがやむを得ない。
それでも、秋風が心地よかった。
明日(東京)、明後日(福岡)で宴席があるので、この2日をどう体重を増やさず乗り切るかがポイントだ。

涼しい

今の日本は丁度良い気候だ。
過ごしやすいのはよいのだが、先月の出張では、ともかく暑くて、1~2回着てはクリーニングに出すような状態だったので、短い間の変化の違いに驚く。
もうすぐ、寒さに震える状況になるのであろうか。
先月、夏用のスーツを5着作ったばかりだが、もう少ししたら秋用を作らねばならないか。
金がかかる・・・


華麗なるギャッツビーを見ながら日本到着

日本でバタバタしていたので、ブログ更新が遅れました。
さて、火曜日の日本航空便で、上海から日本に到着。
手持ちの仕事はこなしていたので、機内ではのんびりと映画鑑賞をする事に。
ディカプリオの、華麗なるギャッツビーを見る。

華麗なるギャッツビーと言えば、小学校6年生の時、月刊スクリーン(毎月買っていた)で、ロバートレッドフォードとミアファローの同作の紹介を読んで興味を惹かれた。
ただ、既に、1年前の作品だったので見る事ができず(当時はビデオやDVD等は家庭になかった時代で、ビデオレンタル屋も当然ない)、致し方なく、講談社の本を買った。
ただ、なんとなく読む気まないまま今に到ってしまったので、どの様な作品だか、さっぱりわからず、ギャッツビーが誰だかもわからなかった(女性の名前かと思っていたくらい)。
ずっと、心の底に引っかかっていたような感があったので、ディカプリオの作品を見れて、長年の謎が解けたような気がして嬉しかった。
そんなささやかな満足感を感じて日本到着。

水曜日は、面談3件と会員様向け無料講習会。
木曜日は、午前中に横浜オフィスで面談した後、午後は、金融研究会主催の講演会。
バタバタの2日間であった。

野菜で痩せねば

数日前の話だが(19日の出来事)、北京・厦門で1.5Kg太ったので、これを元に戻さねばと思い、野菜重視の夕食をとる事に。
香港のVegiという店に初めて行った。
アンチョビソースの野菜スティック、長芋と苦瓜の揚げ物。

カツオのたたきに白身魚のワイン蒸し。

牛タン。
野菜がふんだんに使われており美味しかった。
翌日は0.5Kg減。
その次の日は、家で印詰食だったので、更に0.5Kg減。
毎日体重計にのっているので、自己管理が容易だ。

北京で太る

9月13日から約1週間の間に、香港⇒厦門⇒金門島⇒厦門⇒上海⇒天津⇒北京⇒香港⇒上海と移動し、5回飛行機に乗った。
厦門は旅行だし、北京・天津の面談スケジュール自体はゆとりがあるものであったが、これだけ移動すると、さすがに疲れる。
おかげでここ3日間、悪夢にうなされ続けだ。
では、その間痩せたかと言えば、厦門で0.5Kg、北京で1Kg太ってしまった。
1980年代の様に、美味しいものが無い、と頭を抱える時代とは打って変わって、大都市に行けば、どこにでも美味しいものが食べられる。
嬉しい事だが、体重管理の面では難しい自己管理を迫られる。
北京では、初日が北京ダック。
2日目が萬火という店
非常に分かりにくい場所にある店で、一見さんを拒んでいる様な気もする(店の方々は感じがよく、特に拒んでいる訳ではないのだろうが、大変発見しにくい店、という意味)。
ただ、洋風アレンジが効いた料理は、全て大変おいしい。
これは、焼きナスに生ハムを巻いたものと、さんまとジャガイモのテリーヌ風。
焼きナスと生ハムの組み合わせに意表を突かれるが、美味しかった。

これは通常の焼き鳥メニュー。
トマトベーコン巻とつくね。

軟骨とささみ梅。
僕は、軟骨とささみが一番好きだ。

〆を食べるとまずい、と思い、ぶたしゃぶ(下にキャベツの千切りを蒸したものがいっぱい)を頼む。
それでも、満腹になるまで食べたので、翌日は0.7Kg体重が増えていた。

因みに、カウンターの後ろに、肉の部位が黒板書きしてあるのが面白かった。
へー、という発見もあり。

北京を離れ香港に

北京は2泊3日の滞在だった。
今回も、2日目から北方訛りに耳が付いてくるようになったが、慣れると早々に香港移動だ。
短い北京滞在であったが、改めて感じるのは、北京は街も建物も巨大で威圧感がある。
言葉も上海や広東省に比べると語気が強い。
タクシーの運転手は、怖い顔をして強い口調でマシンガンの様に話しかけ、最後に、「面白いだろ。ははは!」と笑ったりする。
言葉が分らない人だと怒られていると思うだろうな。
上海や華南になじむと、北方は何とも固い印象だ。

また、タクシー事情と空気の悪さは想像以上だ。
絶えず胸・喉に痛みを感じるし、何をするにしても、タクシー確保を考えねばならず、ストレスがたまる。
上海・香港の駐在が、如何に恵まれているかというのを実感した。

この状況下、1年後に北京に会社設立する事を考えねばならないが、さてどうするか。
悩みどころだ。

因みに、今回の北京滞在は、図らずしも柳条溝の日であったが(スケジュールを組んだあとで気付いた)、特に街に混乱は無く、僕が接する人は、総じて親切だった。
去年の9月18日前後の異様な雰囲気はいまだに記憶に強いので、本当に有難い限りであった。

尚、今回は、ホテルの手配、車の手配などに関して、丸紅北京が色々と世話をしてくれた。
いまだに、昔一緒に仕事をした事を、たくさんの人間が覚えてくれている。
拠点のない場所で、古巣の有難味を感じた。


北京初日の印象

北京の初日はあいにくの雨。
北京は巨大な街で、道路も広くて充実しているが、それでも絶えず渋滞。
タクシーもつかまりにくい。
人や車の数に、街があえいでいる様な錯覚に陥る。
ホテルから面談場所に行くタクシーは、40分待ちだった。

夜は、元同僚(丸紅北京の人間3人)と会食。
北京ダック、鴨の舌・水かきなどの部位、口水鶏、麻婆豆腐、野菜系2品、スープ、ビール大瓶15本程度で650元程度。
一人約150元であった。安い。

天津から北京へ

昨日、上海から天津に到着。
3~4年ぶりの天津だが、街の雰囲気が随分良い感じになっていた。
日航ホテルに宿泊。
会食が夜9時半に終わってホテルに戻ったのだが、日本のTVを見てくつろげるというのは、やはり昔の中国ビジネスを経験した人間にとっては、何とも贅沢だと思う。
昔の苦労に比べれば・・・等というと、若者から嫌われてしまうが、現在の中国は、あまりにも便利になったので、そんな気持はどうしても避けられない。
そして、その反面、不便だった時代を懐かしがっている自分がいるのも確か。
人間心理は複雑だ。

今日は、朝起きてジムで5Km走ると、北京に移動。
久々で、チケットの買い方が分からずちょっと手間取ったが、駅到着から50分後に出発する電車に乗れた。
30分で北京に到着。
便利だ。

北京南駅から長富宮ホテルまでタクシー。
話好きの運転手で、やたらと話しかけてくるが、北方訛りが聞き取れず、いたづらに「ははは」と一緒に笑うだけ。
ちょっとむなしい。
北京は年一回程度しか来ないので、毎回、初日はまったく聞き取りができない。
2~3日目にやっと馴染んでくると、帰任というのがいつもながらの日程だ。

厦門でイタリアンと火鍋

(9月14日の出来事)
金門島から厦門に到着すると17時半。
入国手続きもあっさりと終了。
日本人の訪問も少なかろうから、入出国審査は大丈夫だろうかと心配していたが、全くの杞憂に終わった。
因みに、金門島は、観光地となっている戦争の痕跡よりも、市街地で普通の生活が営まれており、また、学生達が平和そうに友人と笑っている姿を見た事が、一番印象深かった。
フェリー乗り場から、マルコポーロホテルの前にある、ママミアというイタリアレストランに直行。
厦門訪問する時は、必ず行く店。
赤ワインを飲みながら、前菜、生ハム、ピザ、ラビオリを楽しむ。

食事が終わるころに、丸紅厦門時代の部下であった陳君(今は友人)に電話をすると、会食中のところを、友人を引き連れて飛んできてくれた。
大変義理堅い。
今回は、クライアント様と一緒なので(親しい方ではあるが)、会えるかどうかわからず、事前連絡していなかったのだが、「水臭い!」と怒られる。
中国、日本各地で仕事をしてきた事もあり、いたるところに友人がいる。
これは、何よりありがたい事だ。

二次会に行き、最後は火鍋屋で夜食。
完全にダイエットを忘れた一日。
翌日体重が1Kg増えていた。
また節制だ。

翌日(月)は、14時半のフライトで上海に移動。
それから、天津⇒北京⇒香港と移動する。
諸国漫遊記の様だ。
ともあれ、短い夏休みであったが、文句なしに楽しく、思い出に残るものになった。

駆け足の金門島観光

フェリー乗り場前で食事をすると、タクシーを借り切る事にする。
3時間でNT$ 1,500
金門坑道、蒋経国記念堂、古寧頭戦史館、その他、色々な場所を回ってもらう。

金門島は本土(厦門から10Km程度)に不自然なほど近い。
金門島の歴史を真面目に確認した事がなかったので、今までは、共産党側が、政策的に近場に国民党側の地域を保存しているのでは、と漠然と考えていた。
ただ、実際に現地を訪問すると、過去に凄まじい砲撃戦があっただけでなく、共産党軍が、数回にわたり金門島に上陸し、多数の死傷者を出す攻防が行われた事が実感でき、認識を改めた。
こういった生々しい歴史を見ると、台湾が1987年まで戒厳令下におかれていた(金門島は1992年)理由が実感できる。
僕が台湾で中国語を勉強したのは、1988~1989年。
戒厳令が解かれた直後で、今のおしゃれな台湾と違い、街もくすんだ感じであった。
写真は、両軍の攻防が行われた場所。
そして戦車。
戦車は、最初を驚いて写真を撮っていたが、島中にあるので、その内、興味を無くして写真を撮る気をなくしてしまった。

ここは有名な金門坑道。
軍事目的で、軍人が手で花崗岩をくりぬいた場所。
今では有名な観光地となっている。
因みに、下では魚が泳いでいるのが見える。

上は、有名な金門高粱酒の工場。
3,000人の従業員を抱える工場との事。
下は、毛沢東カフェの看板。
金門島で毛沢東の看板とは、以前だったら考えられなかったところ。
この看板を見た時が、時代の移り変わりを一番強く感じた瞬間。

金門島からフェリーに乗って厦門に。
僕の台湾を思い出し、同時に、その後25年の変化を、つくづく感じた短い旅であった。
これは金門島のフェリー乗り場。
想像以上に綺麗で清潔。