主管者の交代

海外主管者が交代になると、多くの場合、まずやる事は人員削減だ。
主管者の交代の度に、「前任者は十分な経費統制を行っていなかったが俺は違う」と発言し、各部に人数指定の首切りノルマが出される、というのは、よく聞く話だ。
中には給与が高いというだけで、能力の如何を問わず、そのスタッフを解雇リストのトップに挙げ、解雇したら会社の運営に支障を生じたというケースもある。
確かに、やる気がない社員、能力の割には給与が高い社員はいるので、それらの事情を踏まえて行うリストラは、やむを得ない事である。
ただ、自分のやる気を見せるため(対本社アピール)、前任者に対する反発心がリストラの主要因だと、これは動機不純なリストラと言うべきで、社員のモチベーションを低下させる事になるので、慎むべきだ。

僕自身も、管理部門出身者の特性として、最初は経費の削減が利益の拡大に直結する様な錯覚を持っていたが、長い駐在経験で知った事は、経費の削減が、結果として利益の減少を呼び、縮小均衡に落ち着いてしまう場合が往々にしてあるという事だ。
結果、管理部門が作った損益予想は絵に描いた餅になる。
やはり、前向きな夢が無ければモチベーションは生み出せない。
リストラをやるにしても、夢、意思、計画がある、前向きなリストラであるべきだ。

また、前任者を否定するのは、思春期に子供が親に反発を覚えるのと同じで、ある意味自然な自己表現の感情かもしれないが、やはり1年目は前任者の路線をある程度踏襲し、状況が理解できてから改革を行うべきだろう。

今までに食べた不味いもの

25年以上前の事。
レストランで出された料理がまずくて、文句を言っていたら、一緒にいた女性(年長者)に怒られた。
食事中に文句を言ったら、一緒に食べている人にも迷惑がかかる(嫌な気分になる)。
そんな態度は男らしくない、という事だ。
「なるほど」と納得して反省した。
それ以来、店で出されたものがまずくても、笑って対処できるようになったし、ひどい場合は店を変える(以前悪代官松園君がアレンジしたすさんだ寿司屋の様に)。
まあ、大学時代の安い居酒屋めぐり、不便な時代の台湾・福州研修経験で鍛えられ、まずいものでもそれなりに食べられるようになったので、今の僕には食べられないほどひどい店は、あまりない(美味しいと思って食べるか、美味しくないと思って食べるかという問題)。

今までの経験では、印象に残るほどまずかった(食べられなかった)店は2店。
1店は高校時代。
これは、横浜駅にあった店で、どうしたらここまでの味が作れるのだろう、というくらい不味かった。
味の記憶はすでにないが、一緒に入った友人が、「罰ゲームにできるまずさだ。他の客が、表情変えずに食べているので尊敬する」というコメントしたが、まさに同感であった。
スープは、お湯に色を付けて、化学調味料と胡椒を混ぜただけ、という感じ。

もう一店は、1990年代に香港に有った炭火という焼肉屋(10年以上前になくなった店なので、店名を出しても良いだろう)。
「消防法の関係で、店内で炭の使用ができない」という事情はあるにせよ、炭火と店名に謳っているのに電気コンロ、というのでまず拍子抜けしたが、出される肉や料理がひどかった。
特に最後の冷麺は、リポビタンに酢と醤油を入れて混ぜたような味で、1980年代の中国で鍛えられた僕にも食べられなかった。
出来立ての頃は、高いが不味くはなかった様な記憶があるが、閉店直前はそんな感じだった。

つまるところは、あの店は美味しい不味いと騒いでみても、不味くて鮮烈な印象を残す店はその程度という事だ。
魯山人を非難するつもりはないが、味には泰然自若と構えるくらいの余裕が有った方が、人間格好良い気がする。
それと共に、僕の48年間の半生の中で、あれだけインパクトを残した2店はすごいものだと思う。

社長の経験

僕が最初に社長になったのは36才になりたての頃で、丸紅厦門現法の社長だった。
かなり若くして現法社長になったので、少しは注目されるかなと期待したが、小規模な会社なので、全く話題にならずがっかりしたものだ。
今から思うと当たり前の話だが、初めての主管者の気負いが伺えて面白い。
社長という名刺が持てるだけで舞い上がっていた記憶がある。

では、初主管者のパフォーマンスはどうだったかというと、客観的に言えば、そつなくこなした、という感じなのだろうか。
勿論、僕自身は全力投球したし、短期間で再構築して、赤字会社を黒字にしたので、その意味では成功だが、果たして僕じゃないとできなかったかというと、そうでもない気がする。
それは、営業関係に、ほとんどタッチしなかった事が大きな理由であるのだが。
どういう事かと言うと、丸紅厦門は丸紅香港の子会社だったので、丸紅香港の営業部が直接厦門のスタッフに指示できる様、敢えて管理部門の人間を主管者にして、営業関連に口を出さない様にした訳だ。
商品主管を徹底させるために、傘下会社の主管者には、組織の世話(総務対応)だけさせて、実質権限を与えない(現地主管者のエゴ?を排除する)という事で、商社的な、縦割り(商品管理) or 横割り(組織管理)議論の上に立つ一つの考え方だ。
ただ、社内事情はさておいて、これでは税務的に問題が生じるので(代理人PEになってしまう)、駐在員事務所に組織変更し、オペレーションを変更して事態を整理したが。
若干話はそれたが、そんな訳で、僕の初主管者(3年間務めた)は、満足4割、物足りなさ6割と言った感じだろうか。
ただ、僕個人として思い入れがある福建省で現地法人運営を任された事は印象に残ったし、良い部下にも恵まれた。
一人一人の部下がよい人間だった。
また、丸紅香港の営業部も、前向きにサポートしてくれた。
忘れられない思い出であり、若くして社長になる機会をくれた当時の上司には、今でも感謝している。


次の社長経験は43才の時。
2006年の丸紅傘下のコンサルティング会社(香港、上海)の社長だ。
この時は、実質社内ベンチャーだったし(この位置付けは、後日論争になるのだが、それはさておき)、自分が作った仕事が会社設立に結びついたので、すごく意気込んでいた。
今から思うと肩に力が入りすぎだった。
ただ、基盤のあった香港だけではなく、上海も初年度から黒字にしたし、丸紅を退職するまでの2年間半は、利益拡大・予算達成(最後の年は半期予算)を続けた。更に、人材も育てたので、その意味では成功だ。
ただ、組織維持(利益確保)のためにはやむを得ない面もあったのだが、会社の管理に十分注力できず、組織としてのまとまりを欠いた。
また、社員のモチベーションも十分引き出してやれなかった気がする。
そんな訳で、反省点がきわめて多く、あまり思い出したくない経験だ。
それでも、あの会社があったおかげで、今の僕があるのは確かだし、僕の至らなかった部分は素直に反省して、今の会社経営に活かしている。
そう思えば、感謝すべき経験であり、機会をくれた人たち(特に、稟議を書いてくれた同期)には感謝すべきだろうと思う。

今は3回目の社長という訳だが、それまでの様な、大組織内の役割社長ではなく、本当の意味での社長だ。
それまでに過去の失敗や反省点は、有効活用している。
社長も一つの役割。
経験が生かされるのは確かで、経験があるほど上手くこなせる可能性が高くなる。
その意味では、組織の中で社長を経験させてもらったのはありがたかった。
過去の経験、反省がなかったら、ここまで順調にこれなかったと思う。
人間、無駄な経験はない。
毎年が経験と学習の連続だ。
経験する機会をくれた人たちに、感謝なくては。

人の意見を聞く、聞かない?

大学三年生で約1か月中国を旅行した時、心細いので、ちょっと多めの金額をトラベラーズチェックに替えて持って行った。
ちょっと多めとはいっても30万円程度だったと思う。
トラベラーズチェック作るとき、円建てのチェックをお願いしたら、銀行の担当者から、「米ドルの方が安全でしょう」といわて、それに従った。
中国に着いたら、日本円でも全く問題なかったが。

学生の頃でクレジットカードを持っていなかったので、1か月の旅行の総費用(ホテル代、交通費、食費等など)としては決して多くはないが、実際に使ったのは10万円弱なので、20万円ほどあまった。
ところが、日本に帰ったらプラザ合意で円が急騰し、学生時代の僕にとっては悲しくなるほど為替差損が出た。
銀行のいう事を聞かなければ・・・と悔やんだものだ。

その数年後、1990年に、語学・実務研修を終えて日本に帰った。
初任給は高くはなかったが、新入社員時代は深夜残業・休日出勤続きで金を使う時間がなかったし、研修生時代は、結構よい海外手当をもらった上で、(当時高かった国際電話以外は)金を使わなかったので、入社後の3年間で5百万円ほど貯金ができた。
時代はバブルまっただ中で、定期にすると5~6%の金利が付いたので、最長の5年定期とお願いしたが、担当者が「金融商品がどんどん出ますから、2年程度にして、乗り遅れないようにした方が良いですよ」と言うので、それに従った。
そしたら、2年定期が満期になったときは、バブルが崩壊して、金利がほとんどつかない状況になった。

人生の中で数少ない、(当時の年齢にしては)使うあてのないまとまった金があった時に、プラザ合意とバブル崩壊、という歴史的な出来事があって、更に、アドヴァイスに従ったら損をしたというのは、何とも間が悪いものであるが、随分印象に残った。

この事があってから、この種の判断は、自分でする様になり、人の意見は聞かないようになった。
まあ、財テクと呼べる程のお金はないので、ほとんど影響はないのだが・・・

11月の日本での講演会

日本での講演会のお知らせです。
11月は、日本で、10日(フジサンケイビジネスアイ主催)、14日(みずほ総研主催)、30日(日経新聞主催)と3回の講演会があります。

10日の告知詳細がまだできていないので、まずは、みずほ総研主催外貨管理セミナーと、日経新聞主催のご案内です。
両方とも講演時間は6時間。
みずほ総研主催の講演は、お馴染みになった外貨セミナー。
1日で、中国外貨管理とクロスボーダー人民元の全範囲の法律と運用、更には実務上の注意点を解説します。
日経新聞主催講演は、中国ビジネス実務の基礎知識。
中国担当になりたての方が、「これだけ理解できれば、ビジネススキームが組め、稟議が書ける」という内容を解説します。
内容は、会社組織(設立・撤退・組織再編)、会計税務、外貨管理、国内流通・貿易制度、保税制度等を網羅的に解説した上で、ビジネススキームの立て方も解説します。

<みずほ総研主催>
テーマ:基礎から実践まで!6時間でわかる中国外貨管理のしくみと実務
日 時:2011年11月14日(月) 10:00~17:00
会 場:みずほ総研セミナールーム
聴講料:特別会員 27,300円 普通会員 29,400円 一般 33,600円
    上記価格は昼食代、テキスト代、消費税込。
    1社2名様以上のご参加は、1名様に付き2,100円の割引。

詳細・お申し込みはこちら

<日経新聞主催>
テーマ:1日でわかる・中国ビジネス実務の基礎知識
日 時:2011年11月30日(水) 10:00〜17:00(開場09:30 、昼食休憩12:30〜13:30 )
会 場:丸の内オアゾ丸善3階 日経セミナールーム
東京都千代田区丸の内1-6-4 TEL 03-6256-7352(会場直通)
聴講料:NBS会員 27,300円 一般 32,550円(消費税込)

詳細・お申し込みはこちら

会社の適切な成長とは

一時期、高任和夫という作家が好きで、本はほとんど読んだ。
三井物産の審査マンから作家になった方なので、小説の中の主人公が住んでいる世界が、僕が育った環境と似ていて共感を持ったためだ。

彼の起業前夜という小説を、自分の起業前に何度も読んだ。
面白い小説である。
ただ、自分の会社が安定して、久々に読んでみると、受け取る側(僕)の印象が、随分変わっているのに驚いた。
これは、独立・会社立ち上げ過程で生じた、自分の考え方の変化によるものであろう。

再読時に感じた一番の違和感は、「上場は是。オーナー経営は非」というニュアンスが読み取れる事だ。
これは、主人公が証券会社で上場を担当する部門、という設定からすると、やむを得ない事かも知れない。
ただ、「オーナー経営は是、上場は非」という気はないが、両者の良し悪しを、客観的に扱うべきだと今では思う。
オーナー経営の欠点は、会社の命運がオーナーの能力・姿勢に大きく左右される事で、この部分での脆さを秘めているのは確かだ。
その点で、牽制が働く上場企業の方が、安定性、安心感はある。

ただ、上場企業が必ずしも素晴らしいかというと、一概にはいえなかろう。
金融小説などでは、「会社は誰のもの」と問われると、「出資者のもの(当たり前だというニュアンス)」という会話が出てくるが、今ではその模範解答を目にするといらだちを覚える。
会社は出資者のものであると同時に、社員(使用人)のものであり、顧客のためのものでもある。何より、社会の一部としての存在といる以上、出資者のエゴのみで運営が行われるべきではない。

出資者の目的がキャピタルゲイン、配当収益であれば、会社の基盤、安定成長よりも、短期利益(目先の利益)の極大に走るのは、ある意味必然である。
100億円の純利益があるにも拘らず、それを200億円にするために人員を大幅に削減する。
それに成功すれば、経営者が何億円の報酬を得るというのは、まさにそれを象徴する行動だろう。
これを経営の厳しさと、一言で片づけ称賛するのは、短期利益の極大(=出資者の利益確保)のみを価値基準とした意識操作だ。
利益の拡大は、停滞は衰退を意味する経済界において、会社の維持の為の必然であるのは確かだが、実態を無視した利益拡大欲求は、経済を破綻に導く。

純粋な社会主義(競争原理が働かない経済)がうまく機能しない事は、歴史が証明した形になっている。
ただ、特定の参加者のみが行う(利益の極端な集中に導く)資本主義、言い換えれば、歪んだ資本主義が、いま、是非を歴史に問われている気がする。

最近、米国で生じている格差是正のデモは、一部の富める者(力があるもの)の「やりすぎ」が導いたものだ。
この行動が、何かを変えるとは思いにくいが、一つのメッセージとして、真摯に受け止めるべきであろう。
市場経済(上場企業の会社経営を含めて)が、米国流のやり方に引きずられているが、正義の仮面をかぶった損益管理制度、開示制度、コンプライアンス制度が会社を疲弊させており、会社構成員の活力を奪っている気がする。
経済の「適正」な成長と会社のあるべき姿を、今考え直すべきではないか。

横浜で烏賊を食べながら祝杯

祝杯

3泊の日本出張。
短い割に、ぎっしりと予定が詰まった出張だ。
夜は、日本所長兼チェイス社長の杉山君と会食。
子供も生まれたし、日本所長でもあるので、そろそろ亀一から格上げだ。

彼に任せているチェイスがやっと軌道に乗ってきた。
仕事でもよいことがあったので、祝杯を上げる事にした。

前回の出張で、関内をぶらついている時に良さそうな店があったので、今回はそこに飛び込んでみた。
活き烏賊刺身が売り物の店(海鮮料理)だ。

まずは乾杯。
僕はビールの後日本酒。
十四代や〆張鶴があったので頼む。
日本は、良い日本酒が飲めるのでうれしい。

日本酒好きの僕だが、悪い日本酒を飲むのは大変悲しい。


メインは烏賊。そして中トロまき

夜9時開始の遅い会食であったが、店もよく、気分もよく、楽しい会食であった。
僕は生ビールx2と日本酒3合。
杉山君は、生ビールx1と巨峰サワー、蜜緑茶サワー。

一児の父となったものの、海鮮を食べながら甘いサワーを飲むとは、まだまだお子様だ。

短髪も慣れると

髪を切って3週間が経過したので、随分落ち着いてきた。
この3週間、指を指して笑われたり、入出国審査の時ににやりとされたり、銀行窓口で見知らぬ担当者から(身分証明書と見比べられて)随分変わったねぇと言われたり、「どうしてこんな事になっちゃったんだ」と言われたり、まあ、いろいろな事があった。
つまるところは似合っていない。

ただ、慣れてくるに従い、ちょっと気に入ってきたので、(もう少し長くすると思うけど)短い髪はしばらく続けてみようかと思う。
洗髪時の簡単さは何にも代えがたい。

因みに、心配していた、入出国時に止められるという事態はなかった。
思い起こせば1998~1999年。
遠華集団事件の名残で、特に、厦門の税関がピリピリしてた時は、ちょっと髪型を変えると、「本当にお前か!?」と猜疑心丸出しで質問されたりなどしたものだ。
それからすると、税関では、にやりとされることはあっても、眉をしかめられる事も、無礼な対応を受ける事もなかったのは、時の流れを感じる。

中国の税関対応の変化をつくづくと感じる。

経験したことまでは耐えられる

一週間ほど前の話だが、上海から香港に移動した。
その際の写真。
飛行機の待ち時間、シャロンでハイネケン。
この時は、東方航空格安チケット(国際便4回乗って2万円)の最後の1回。
9月の出張時は散々であったが、今回は打って変わって遅れなし。
シート・サービスも良好で、いたく満足。
また乗ろうと思いながらのビールであった。
僕はなかなか懲りない!?


話変わるが、中国で生活している日本人と話をしていると、サービスが悪いとか、美味しいものが食べられないとかいう不満をよく聞く。

ただ、サービスでは、日本は世界一と言ってもよかろうから、日本を基準にしていると、世界中どこに行っても不満が残るのではないか。
海外に出れば、新しい尺度も必要だ。
こんな風に言えるのも、僕が1989年に一年間の福州滞在経験があるからだろう。

当時何が一番嫌だったかと言うと、インフラでも食事でも通信でもなく(これもずいぶん辛かったが)衛生面である。
取引先に行くと、どの公司ももれなく廊下が痰で埋まっている。
埋まっているというのは比喩ではなくて、本当にどこも一面びっしりと吐き散らかされており、これを避けるためには、爪先立ちで飛んで歩くような状態だった。

また、ちょっと街外れで食事をすると、店はぼろぼろで、食事をしているとハエが何十匹もたかる。
これを誰も気にしない。

これがあまりに辛くて、まだ快適だったホテルの中に閉じこもる事となっていた。
一年後には軽い鬱症状だ。

研修生は研修地を離れることができなかったので、1年間その状態で生活したのが精神面に影響を与えたのは確かであろうが、あの時、一度でも出国していたら、もう戻らなかったかもしれないので、出国不可はその意味では正解だった。

ただ、一度そんな経験をしてしまえば、あとは強い。
一度経験したことまでは人間耐えられる。
中国の状況は年々改善しているので、その頃の経験があれば、今は天国だ。
そんな意味で、あの時の経験が故に、たくましさ、図太さが身に付いたのは確かだ。


因みに、研修から日本に戻ったのが1990年。
その3年後(1993年)にベトナムに出張に行ったが、1989年の福州に耐えられた僕が、1993年のベトナムには耐えられなかった。
長期滞在と、すぐに帰れる出張の、気構えの違いだったのかもしれないが。
その時の印象が残っているせいか、いまだにベトナムはちょっと苦手だ。

IT活用あれこれ

僕のデビュー(?)が上海エクスプローラー、NNAだったので、ITに強そうな印象を持たれがちだが、実は大変苦手だ。
とは言え、ブログは2004年から書いているし、10年前からインターネットを活用した情報配信をし、今では、チェイスチャイナというインターネットでの情報配信会社を持つ様になっている。
それ以前に、僕は字が下手で書くのが遅いから、ワープロがなかったら、仕事全般に苦慮していたであろう。
そんな感じで、苦手にも拘わらず、ITの恩恵を多分に受けている事になる。
これも身の回りにITに強い人々がいるおかげだ。
持つべきものは頼れる仲間だ。

因みに、googleで、「水野真澄」と検索すると9万件程度ヒットする。
これを、「水野真澄の」とすると、170万件のヒットだ。
前はもっと差が顕著だったので、ブログの名前をはじめ、コーナーのタイトルを変えてみたり(調べてみると、2001年から僕が受け持つもののコーナーは、全部、「水野真澄の~」だった)、ITに極めて強い斉藤さん(用語集の共同執筆者)に対応をお願いして、やっとここまできたもの。
ヒット数が同じになればよいのであるが、水野と入れるとまず出てくる水野真紀が120万件程度。
水野真紀の件数を抜かすというのは、常識論からいうと不自然なので、今くらいが自然かなという気はするが。

ただ、ヒット数が上がったり、検索順位が上がるとビジネスにつながるか、というと、個人的にははなはだ疑問だ。
結局、僕の会社と契約して頂く方は、僕の本や講演会で、僕の事を理解してくれている方である。
検索順位が上がった事で、僕を知らない方が、顧客になるとはあまり思えない。
一時期、中国ビジネスという項目で、トップに出てくるような状況があったけれど、その際は、「何々(商品)の代理店になってくれる」とか、「無料で教えてくれ」とか、必然的にお断りせざるを得ない様なE-mailが多かった。

googleが検索ロジックを変えて大騒ぎ、と言う様な記事が最近あったけれど、少なくとも、僕自身は技巧を凝らして検索順位を上げようとは思わないし、あまりビジネス上の効果も期待できない気がする。

脈絡はないが、先日の日本出張で食べたラーメン。
日本にいる時が一番忙しい。
今回も昼食は、立ち食いソバかラーメンであった。

これは花月のラーメン。

そして渋谷駅前で食べたつけ麺。
あわただしい出張の、あわただしい食事であった。

また明日から日本。
それでも日本出張はちょっと嬉しい。