35年の中国投資環境の推移

2012年も今日まで。
明日から、新しい気持ちで走り出さなければいけない。
僕が中国を初めて訪問してから、既に、27年が経過し、環境が随分変化した。
随分、というより、外国と呼んだ方が良いような環境変化だ。
来年からの行動を整理する意味で、過去30数年の中国の投資環境の変化を、10年毎に簡単に整理してみた。
トレンドを踏まえると、これからの道筋が見えてくる気がする。
中国は工場から市場に転換を始めており、日本企業の製造・販売戦略も、広域化が必然となっている。
今年の年越しは、僕がこれからどう動くかを考えながら、という事になるであろう。

① 1980年代
中国の改革開放路線が1978年末に決定されたので、1980年代は、中国が外資誘致に本腰を入れ始めた時期と言える。
80年代の中国は、市場は無くインフラも未整備であったため、外資生産型企業(特に輸出型)はもれなく歓迎という時代。
誘致の為に、外資生産型企業には、もれなく設備・原材料の免税輸入権(総投資の枠内)、企業所得税のタックスホリデー、優遇税率が提供されていた。
その分、投資環境・制度は未整備であったため、加工賃の受払いだけで外貨操作が完結する来料加工は、外国側・中国側双方に有利な制度であった。

② 1990年代
1990年代になると、中国が徐々に外資企業を選別する様になってきた。
90年代中盤には、三来一補を歓迎しないという発言が政府機関から聞かれ、免税輸入制度は1996年に打ち切られた。
ただ、これは当時の中国政府の読み違い(自信過多)とも言え、外資誘致が急速に落ち込んだため、免税輸入制度廃止は撤回された(1998年に復活)が、免税対象を、全ての外資企業から奨励分類(当時の分類では、奨励分類と制限乙類)のみに限定するなどの調整が行われた。


③ 2000年代
2000年早々、中国は世界の工場と呼ばれ進出ラッシュが起こった。
同時に、WTO加盟を契機に、各種の外資規制も緩和された(国内流通権・貿易権の開放など)。
一方、超内国民待遇の解消も進められている(企業所得税法の内外資統合など)。
つまり、良い意味でも悪い意味でも、内外資の待遇均等化が進められた10年間と言える。
また、2000年代の10年で、最低賃金は約2倍になるなどのコスト上昇が生じ、後半には、世界の工場から市場に転換する傾向を示した。
実際、2007年頃には、政府機関も「既に輸出奨励ではなく輸入奨励」と発言する様になり、外貨獲得よりも、国民に対する物資供給に重きが置かれる様になった。
それを背景として、金融・外貨管理制度も、景気過熱政策にウェイトが置かれる様になった。

④ 2010年代
2010年代に入っても、2000年代後半のトレンドに変化はない。
中国の企業選別の傾向も強まっているし、逆に、企業側でも、反日リスクに対する警戒感を典型例として、進出地の選別が慎重に行われている。
今後の中国展開は、中国の市場(販売・調達双方の市場)をターゲットとしているか、加工モデルかで色合いが大きく変わる。
また、中国進出に付いては、一層の規制緩和を前提とした、インターネット・医療などの参入が、トレンドとなる。つまり、工場から市場への位置付けの転換が強まろう。
製造関連は、中国・ASEANのFTAも踏まえながら、中国・ASEAN一体となった戦略が必要となると思われる。

タクシーを70分待ち

今年は日本で年越しだ。
独立起業してから、香港、中国のカレンダーに合わせて、1月1日のみ休み(大晦日まで仕事)としていたのだが、今年は思い切って12月31日(月)~1月3日(木)を休みにした。
そんな訳で、日本で年越しができる事に。
昨日(金)は仕事収め。
その後、高田馬場に移動して、大学卒業以来初めて開催の、合気道同窓会に参加。
昔話で盛り上がる楽しいひと時で、つい帰りが遅くなる。
その後、タクシーで帰ろうとすると大行列。
冷たい雨の降る中を、70分待って、やっとタクシーに乗れた。
日本でこれだけタクシーを待ったのは、おそらく20年ぶり。
バブル以来ではなかろうか。
いやあ、辛かった。
とは言え、夜の街でひたすらタクシーを待つのは、日本が元気だった時を思い出し、ちょっと懐かしかったのも確かだ。

社長来訪時の大騒ぎ

以前、ブログに書いた黒木亮の「アジアの隼」を読んでいて懐かしく思った事の一つとして、社長出張時のドタバタが有った。
勿論、社長の性格によって、ここらはまるで違い、例えば、僕が尊敬している辻前社長の場合、部下にも気を遣う方だったので、受入時の問題は全くなかった。
一方、それ以前の社長の場合、海外店全社を挙げて、てんやわんやの大騒ぎとなる場合も多く、ホテルやレストランをどうする、移動の道順は等の会議が続き、数週間仕事が全く手に付かない事もあった。
中には、部屋の中でチェックインできない、手作りおにぎりを差し入れなかった等の理由で当時の社長の機嫌を損ね、更迭された人間まで出る始末なので、たかがおにぎり、朝の粥といって、馬鹿に出来ない。
まさに、サラリーマン人生をかけての会食アレンジだ。

社長ほどではなくても、本社の取締役クラスや、ミッションが来る時も気を遣う。
人の性格はそれぞれで、ホテルの部屋ひとつとっても、良い部屋でないと機嫌を損ねる人、逆に、良い部屋を取ると機嫌を損ねる人がいる。
ここらを、はっきり言ってくれればよいのだが、誰も言わないので、秘書や、事情を知る人たちに電話をかけて聞きまわらなければいけない。
思い出に残るのは、2年程度の短命に終わった元中国総代表が、僕が所長をしていた厦門を訪問した時。
周りに聞くと、「良い部屋を取ると脇が甘いと言って怒るが、安い部屋の値段でアップグレードできれば喜ぶ」と言われ、「そんなの誰でも喜ぶわ!」と、ぶつぶつ言いながらアレンジした。
また、量働く事を信条としている人物だったので、部屋で休息、街中観光は絶対にしない。滞在時間は、ぎっしりと客先訪問、オフィスで業務報告を組まなければいけないが、当時の丸紅厦門事務所のビジネス規模は、それ程大きくなかったので、2時間も業務報告すれば、話す事もなくなる。
5分で済む話を30分かけて話したり、ワンブロック先のビルに移動する時、強引に島を反対周りに移動したりして、四苦八苦して時間を潰した
半年後、その総代表と会った時、「水野君、厦門は広いなあ」と言われ、苦笑いした。

僕が海外で、最初にミッションを受け入れたのは、25才の福州研修生の頃。
入社3年目の若造だったので、それまで話す機会が無いような取締役クラスが何人もくるミッションは恐怖であった。
厦門が社内で注目を集め出した頃なので、毎月の様にミッションが訪問し、通訳をしたり、レストランで同席したりした。
最初は緊張で、殆ど口もきけないくらいだったが、数回目に、「話をしないと、全く相手の印象に残らない。地位もない若造一人、どう思われてもいいので、思い切って話しかけてみよう」と開き直った。
その後、積極的に話しかけてみたら、優しく接してくれる人物が意外に多く、「怖がることはなかったんだ」と安堵した。
何事も経験で、入社3年目で、何人もの取締役を受け入れ、その世話をした事で、徐々に気持ちが吹っ切れ、物怖じしない性格になっていった。
地位のある人や、注文の多い人の相手をするのは、確かに厄介な面も多いが、今から思えば、若手時代にそれを経験できたのは、後の糧になったと言える。

嫌な奴だと思った時は

先日のブログで、なんだかんだ言っても、自分は中国が好きなんだろうという趣旨の事を書いたが、ここ数年、あまり中国でいやな目にあった事がない(特に、日本人であるが故に不愉快な目に遭った事がない)事も、その気持の一因となっている。
では、昔から同じだったかと言えば、23~25歳で台湾・福建省にいた時は、毎日の様に嫌な目に遭い、腹を立て、時には喧嘩をしていた。
日本に戻った時、大学時代の後輩から、「随分丸くなりましたね」と言われ、「2年間で一生分怒ったから、あまり腹が立たなくなった」と答えたが、それは冗談ではなかった。
では、何故、20代の時と今で、これだけ違うかと考えると、
① 昔は、若くて地位もないのでなめられていた。
② 中国人の、他人へのあたりが柔らかくなった。
③ 中国生活が長いので、純粋な日本人の物腰ではなくなってきた。
④ 昔は、僕側の問題もあった。
などの理由が考えられる。

①に付いては、確かにあると思う(中国でも日本でも同じだが)。
では、若い人は救いがないではないか(いやな目に遭う事から避けられないのではないか)と言われそうだが、確かに、ある程度避けられない面がある。
これは全ての人が歩んできた道だ(年長者も若い時は不快な目に遭ってきた)と思い、ある程度はあきらめる必要がある。
②・③の理由もそれなりにある。
そして、④の理由が、結構重要だと最近は思う。
「嫌な奴だ」感じる時、たいていは相手も自分の事を嫌な奴だと思っている、と以前の同僚が言っていたが、言い得て妙だ。
49年生きてきて、この年になっても、毎年反省する事があり、その都度、自分の物腰を改めようと思う。
人と目が合ったらまず笑顔。少しくらい待たされてもむっとしない。
都度、ありがとう、すみませんと言葉をかける。
(飛行機内などで)棚の荷物の上げ下げを手伝ってあげる、後に続き人の為にドアを持っていてあげるなどの、細かい気遣いをする。
この程度の心がけで、相手の物腰はかなり変わる。
若い頃は、こちらの気遣いを相手が無視したら嫌だ、という気が先に立ち、なかなかそれが出来なかった。

ただ、それを期待せず行動してみれば、例えそれが中国であっても、9割程度の確率で返ってくる事が最近分かった。
例えば先日、後ろから来る若い中国人の二人連れの為に、ドアを開けて通してあげたら、次のドアで、ドアを開けて僕を待っていてくれた。
こんなことは、20代の僕にはできなかった。

何をした訳でもないけれど、表情がきついとか、むっとした顔をしているとか、そんな小さな理由で、相手が攻撃的になる事が意外に多い。
西洋人がオーバーアクションなのは、自分は敵でない事を見知らぬ相手に意思表示するためだと、以前、英語の教科書で読んだが、これは、東洋でも同じだ。
国際化が進めば、異文化・民族との接触が増え、生活上のリスク(衝突)も増加する。
細かい気遣いや好意の意思表示は、自分を守る術でもある。
まあ、まだ悟りが開けた訳ではなく、怒る事は有るのだけれど、気の持ち様と遣い様で、起こさなくてもよいトラブルは起こさないようにしよう。そう考えられる様になってきた、という次第。

組織の成長を感じる

昨日上海到着。
香港(気温15度程度)から移動すると、寒さが特に身に染みる。
年度末でもあり、中国・香港では賞与査定や来年の待遇などの検討をしなければならないのだが、社員みんなよく働いてくれており、変な意味で悩まなくてよいのがありがたい。

コンサルティングを始めて12年。
独立起業して4年半だが、最近1年間の大きな変化は、総経理クラスが、ちゃんと新規の契約(顧問契約、スポット契約)を決めてくれるようになった事。
以前は、僕が取った仕事を、こなす事は問題なかったが、新規の契約を取る部分は、僕しかできなかった。
これが最近では、総経理クラスであれば、僕無しでも仕事をしっかり取ってくれ、自己完結できる様になってきた。
社員一人一人の成長を感じる。
僕の会社は、僕個人の印象が強すぎる事もあり、部下の顔が外に出にくい面があったが、僕が教えてきた事、僕の考え方が、個々人にしっかりと根付いている。
その意味では、僕がいなくても水野コンサルティングだ、と言える日は、意外に近いのかもしれない。
勿論、僕自身は、全く引退するつもりはなく、コンサルタントとして、あと20年以上頑張るつもりだが。

話変わって、今日は昼食を食べるために、古北の日本料理屋を探し回る。
日本風ラーメンが食べたかったが、良い店が見つからず。
何より、日本料理店は、どこもかしこも満員だ。
客層から見ると、中国人が過半数で、これが、繁盛に繋がっている模様。
イタリアンはガラガラだったが、さすがにその気分ではない。
店で食べるのを断念して、松屋でチキンカツカレーをテイクアウトして食べる。
松屋もカウンター席までぎっしりだ。
チキンカツカレーは28元。
まったく期待していなかったが、食べてみると、思った以上に美味しかったので、なんとなく得をした気分だ。
上海の松屋。なかなか使える。

これから上海

クリスマスイブは人手が多いからであるかない方が良いと人から聞いたので、結果、4日連続自炊となってしまったが、休養が取れたので、体は完全に本調子。
これから上海に移動。
明日は3件面談だ。
今年最後のスパート。

年末には、チェイスチャイナから出版する書籍(先日のみずほ総研のレジュメに、図や解説を加筆したもの)を書こう。

中国が好きかと問われれば

最近、(特に中国人から)中国の事が好きか、と問われる事が多い。
中国(香港、台湾含む)に居住して17年半が経過したが、その間、良い事もあったし悪い事もあった。人との出会いもそうだ。
特に、今年の反日運動の様な事があれば、愛憎交えた気持になるのは当然だが、それでも好きだから、ここにいるのだろう。
何故、好きかと聞かれても、これは感性の問題で、答えはない。
ここで過ごした時間であり、積み重ねた経験であり、出会った人々がそう思わせる訳だ。
ただ、僕と同じ経験をしても、中国が嫌いになる人はいる。
中国人も同様で、日本を好きになる人もいれば、嫌いになる人もいる。
これは致し方ない事だし、間違ったことではない。
ただ、その感情が、自分の目で見て、感性でとらえた結果なら良いが、悪意を含んだインターネットやメディアに感情を操作され、相手を理解しない中で植え付けられたものであれば、残念な事であり、それ以上に、この様な情報の暴走は、非常に怖い。

(政治はさておき)国民感情という意味での反日、それに起因した日本人の対中感情の、厄介な点であり、同時に救いでもあるのは、「お互い、自分達は被害者だ(相手から傷つけられた)」と思っている点だ。
日本人の記憶には、大使館への投石や、日本車や日本料理店の破壊が有り、それが故に、自分たちは傷つけられたと思い、相手を嫌う。
一方、中国人の感情は、戦争中に遡る。
その時受けた破壊行為や身体的被害は、反日活動の比でないのは確かだし、終戦後、日本が急速な経済成長を遂げた時、中国は、日本人から下に見られていたという感情がある(更に、数百年さかのぼれば、その感情は逆になるのであろうが)。
それ故、日本人を嫌う。
憎悪を抱かせる情報の氾濫が、相手に対する肯定的な感情を押しつぶし、それにより、被害感情が、ますます複雑に入り組み拡大する。

加害者が被害者に与えた感情を、正しく認識するのは難しい。
ただ、人の記憶・感情に時効はなく、自分の取った行動は、何らかの形で自分に跳ね返ってくる。
日本人、中国人共に、この数年間、そして、数十年間に取った行動を認識し反省すべきだ。
相手に反省させるのではなく、自分で認識し、正しい方向に進むための判断材料とするのだ。

丹羽前大使の離任会見での、「日本はけしからん、中国はけしからんと言い合っていても何も生まれない」というご発言は、まさに正鵠を得ているし、日中関係に携わるたくさんの人々の気持を代弁して頂いているとも思う。
お互いの経済依存が進んでいる中で、これを断ち切れば、双方の経済に衝撃的なダメージがある。
その結果、自国の経済、雇用、生活、更には、生命の安全すら脅かされる。
必ずしも、日中友好でなくてもよいが、この現実はしっかり見据えて行動すべきだ。
悪意が善意を押しつぶす流れは、そろそろ断ち切るべきだ。

一人暮らしが板に付いてきたか?

ブログに書きたい事はあるのだが、昨日・今日と、真面目な文章を書く体力がない。
数日前に、業務ピークを越えて、通常のスケジュールに戻った感あるが、体力を回復するために、週末は、とことんだらけようと考えた。
とは言え、最低限やらなければいけない事はあり、それが、NNA原稿執筆、金曜日に頂いた急ぎのE-mailに対する回答、1日5Kmのランニング(最近、運動不足だったがやっと再開)、生活用品の買い出しという内容。
仕事&ランニングを終わらせるまでは、酒を飲むわけにはいかないので、自ずとだらけるのにも制限が付く。
昨日も今日も、ビールを飲んでのんびりできるのは、18時になってから。
更に、真面目なブログを書こうと思うと、結構、精神面の負担がかかるので、週末は、当たり障りのない内容でしのごうと考えた次第。
現在、8割程度の回復で、月曜から心身ともに全開となるよう休みを取ろう。
今日は仕事は終わったので、あと5Km走ればビールでごろ寝だ。

話変わって、昨日、ジャスコでホットプレートを購入した。
最近、自炊が気に入ってはいるが、男の一人暮らしだと、本格的なものは作る気にならず、ご飯を炊いて、レトルトや焼肉などと一緒に食べるのが常。
これだと、あっさりと食べ終わってしまい、過食に繋がる。
ホットプレートを使って、調理しながら食べれば、ちょっとは改善できるのではと考えた訳だ。
まずは、ちくわや豆腐、しらたきを買って、鍋を作ってみた。
買ってきた材料にポン酢醤油をかけただけなので、味的に特筆すべきものは無かったが、ちょっとのんびりできた。

自炊が続くと、孤独感から夜眠れないのが常であったが、この1~2週間は、バーすらも行く気にならない。
それだけ体が疲れているという事だろう。

のんびりできる週末

昨日(21日)は、香港は冬至で、殆どの会社が早帰り。
僕は、ジムで軽く走って、家で食事。
急ぎの仕事は済ませてしまったので、早めに寝た。

今日は、朝6時に起きてしまったのだけど、久々の、急ぎの仕事がない休日なので、無理にでもだらけようと思い、再度寝直し。
11時半に起きて、簡単な食事を作って食べると、住居のジムで走り、買い物に出かけた。
氷、石鹸、アルミホイル等の生活必需品の買い足し。
ただ、家で鍋が食べれる様、ホットプレートをつい買ってしまう。
これがあれば、肉やレトルト食品に偏らなくて済むと、少々嬉しい。
あとは、NNAの連載原稿を書けば、酒が飲める。
NNAの原稿は、最近、月に2~3回ご質問を頂く、日本から中国法人への設備・金型の無償提供の可否を書こうと思う。
広東省では、来料独資転換の結果、無償提供設備方式が取れなくなり、如何に、外国(日本、香港)からの設備を無償提供するかに、悩んでいる企業の方が多い。
勿論、広東省以外、加工貿易企業以外でも、この様な事で悩んでいる方が多いのだが。
ただ、この実行は、中国の制度上、極めて難しく、原則論に立ち返った対応をせざるを得ない場合が多い。

本来、ブログで書きたい事もいくつかかあるのだが、今日は、休養日と決めたのでこの辺で。

広州2泊は久しぶりだ

無事広州から香港に到着した。
昨日午後、ダメ元で、スタッフに広州東駅に行ってもらうと、随分行列はできていたが、翌日のチケットの発売が開始されていたとの事。
おかげで昨日も宿泊でき(広州久々の2泊)、丸紅広州の面々と忘年会ができた。

因みに、昨日のJETRO個別相談会は3件(12月に2回こなしたので合計9件)。
面談の合間に、当社(広州)の会議室で、コーヒーショップでテイクアウトしたパスタを食べながら業務処理。
眺めがよいので、なかなか優雅であった。